HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2014/11/10

「合唱」が語るヨーロッパ史
第3回:古典派〜その1

西洋クラシック音楽の根幹を成す「合唱」の歴史を振り返る本連載。昨年度は第1回「中世からルネッサンスまで」、第2回「バロック時代」というテーマでお届けしました。そして今年度、第3回では、J.S.バッハやヘンデルを経て、ハイドンやモーツァルトらが活躍する「前期古典派」を中心に見ていきます。

文・小宮正安(ヨーロッパ文化史研究家、横浜国立大学教育人間科学部准教授)

モーツァルトの知られざる傑作

 生前のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)は、自分が完成させた曲について目録を付けていた。ただし「目録」といっても備忘録のようなものであって、彼の全ての作品が網羅されているわけではない。だから、その死によって未完のまま残されてしまった有名な《レクイエム》も当然のことながら記されていない。

 ではモーツァルトが手ずから記した目録の、いっとう最後に書かれている曲とは何か? カンタータ《我らの喜びを高らかに告げよ》であって、彼が入会していた秘密結社フリーメーソンのために書かれた一曲だ。なおフリーメーソンには女人禁制という掟があったため、この曲ももっぱら男声による上演が念頭に置かれており、男声合唱にテノールとバスの独唱、それにオーケストラという編成になっている。

 作品が書かれたのは1791年11月のこと。1ヵ月後足らず後に死去するモーツァルトだが、フリーメーソンの新たな礼拝堂が造られるということで、その落成式に合わせ当カンタータを作曲した。この頃モーツァルトの体調はかなり悪化していたようだが、落成式には彼自身が赴いて、この新作を指揮したという記録もある。いずれにせよ演奏時間は短いながら、内容的にはきわめて輝かしく力強く、死を目前に控えた人間が書いたものとは到底思えない。

 いわば、死の想念に覆われた《レクイエム》と表裏の関係にある、もう1つの傑作といえるだろう。しかも《レクイエム》は、カトリックの伝統に基づいておこなわれる死者のためのミサ用の曲であり、ラテン語の古いテキストを基にしているのに対し、こちらのカンタータはカトリックの支配からの脱却を唱えて弾圧を受けた結果、秘密結社とならざるをえなかったフリーメーソンのために書かれている。テキストも、ウィーンの一般的な人々の言葉であるドイツ語だ。そんな意味でも、実に《レクイエム》とは対照的な作品である。

世俗への歩み寄り

 モーツァルトは前半生、ザルツブルクの宮廷楽団の音楽家として働いていた。ザルツブルクは、カトリックの地方責任者ともいえる大司教が治めていた地。というわけでモーツァルトも、教会のためにミサ曲をはじめとする数多くの宗教的声楽曲を書いた。

 いっぽう、16世紀以降カトリックにとっての強力なライヴァルとして現れたのがプロテスタントだった。なかでも、宗教改革の提唱者であるマルティン・ルター(1483-1546)を先達とするルター派は、教会音楽においても独自の姿勢を明確に示してゆく。具体的にはカトリック伝来のミサ曲(およびその際用いられる古いラテン語のテキスト)ではなく、一般の人々にも理解できるドイツ語を用い、彼らにとってお馴染みの賛美歌のメロディを随所で用いたカンタータを使用するようになったのだ。

 ただしカンタータは、元はといえばイタリアの生まれ。「愛(アモーレ)の地」と言われるイタリアを象徴するかのように、当初は男女の愛を歌い上げる声楽曲だった。だが後に、ルター派を中心に宗教音楽としての性格が強まった結果、世俗的な出来事を歌う本来のカンタータの姿勢を受け継いだジャンルは「世俗カンタータ」、かたや宗教音楽としてのカンタータは「教会カンタータ」と呼ばれるようになってゆく。

 この教会カンタータの分野で、ギネスブック級の偉業を成し遂げたのがヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)である。だが彼は数こそ少ないが、優れた世俗カンタータも手がけた。なかでも有名なのが《コーヒーカンタータ》。彼が後半生を送ったライプツィヒで好まれていたコーヒーを巡り、家族の日常的な騒動を描いた作品だ。なおライプツィヒはこの時代にしては珍しく、商人や手工業者といった市民層が様々な自治権を握っており、まただからこそバッハも、彼らの世俗的な興味をそそるような曲を作ったのだろう。

聖と俗の融合

 モーツァルトが作ったフリーメーソンのためのカンタータも――非教会組織のために書かれたという点では――世俗カンタータの分野に属するといえる。と同時に、フリーメーソンの礼拝堂という聖なる場所を意識して作られた経緯を考えるに、教会カンタータ的な要素も見られる。

 このように、「聖」と「俗」という対照的な要素を兼ね備えた声楽作品が、18世紀になると盛んに作られてゆく。その代表的な存在が、ドイツに生まれ、イギリスで活躍したゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)。彼は、これも元はイタリア発祥の「オラトリオ」というジャンルで、《メサイア》をはじめとする傑作を書いた。

 オラトリオは、プロテスタントの勢力拡大を食い止めようとしたカトリックが、聖書の題材に基づきつつも、時に世俗曲のメロディも取り入れ、ミサ曲に比べはるかに自由な形式を用いて作り上げた声楽付きの宗教音楽のこと。これがイギリスにも伝わって、圧倒的人気を博した。

 当時のイギリスでは、16世紀にカトリックと袂を分かって誕生したイングランド国教会が主流だったが、それでもカトリック由来のオラトリオが流行したあたり、このジャンルの柔軟さがうかがい知れる。つまりオラトリオは、聖なる世界と俗なる世界を融合させた存在で、それゆえに宗教的な枠組みを超え、多くの人々の心を掴む魅力に溢れていたのだろう。

 しかもヘンデルのオラトリオでは、合唱が大活躍する。イギリスではヨーロッパ大陸に先駆けて市民階級が力を増しつつあったが、彼らは合唱の特徴である「ともに声を合わせる」形に、同じ市民階級同士が協力し合い、一つの世界を作り上げてゆく夢を重ね合わせた。そしてそんな彼らの夢が、聖なる特別の世界に押し込められるのではなく、聖なる世界と俗なる世界の中間で幅広い層に訴えかけるオラトリオの合唱へと反映されていった。

堅く手を結び合わせて

 イギリスにおけるオラトリオ・ブームに大きな影響を受けたのが、ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)だ。ハイドンは長年に渡り、ハンガリーの有力貴族のエステルハージ家に宮仕えをしていたが、新たに当主となった人物と馬が合わず、さらに当時としてはかなりの高齢となっていたため、宮廷音楽家の地位を引退する。だが彼の人気と実力を聞きつけたイギリス在住の興行師ペーター・ザロモン(1745-1815)に説得された結果、はるばるドーヴァー海峡を渡り、足掛け二度にわたりロンドンに長期滞在して活躍を続けた。

 この街でハイドンは、主にヘンデルが作曲したオラトリオの存在を知り、感銘を受けることとなる。そしてロンドンからヨーロッパ大陸へ戻り、終生の地となったウィーンに腰を落ち着けると、《天地創造》と《四季》というオラトリオの傑作を手がけていった。いずれもキリスト教的な聖なる世界観に、男女の愛や農民の生活といった俗なる事象が結びつき、合唱が要所々々でそれらの物語を推し進めてゆく。しかも華やかさや重厚さに溢れたヘンデルの作風とは異なり、誰でも口ずさめるような、つまりは一握りの人間ではなく、それまで特権階級の支配下に甘んじてきた大勢の市民が等しく親しめるようなメロディに満ちている。

 18世紀の終わり、市民階級が力をつけてゆく最中にあって、ハイドンのオラトリオは新たな時代の宗教曲であったといえるだろう。皆が歌えるようなメロディに合わせ、大勢の市民が声を合わせ手を取り合うことで、素晴らしい社会へと歩んでゆく・・・。そんな希望に満ちた想いが溢れてゆく世にあって、モーツァルトもまた、件のフリーメーソンのためのカンタータの付録ともいえる男声合唱曲をもう1曲作っている。題名は《堅く手を結び合わせて》。そのメロディは(歌詞こそ異なるが)、現在モーツァルトやハイドンに縁のオーストリアの国歌に用いられ、多くの人々に歌い継がれているのだ。


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