HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2014/11/05

ようこそハルサイ〜クラシック音楽入門~
「24の前奏曲」ってなに?

文・飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)
F.ショパン
Chopin,_by_Wodzinska.JPG

 ショパン、ドビュッシー、スクリャービン、ショスタコーヴィチ。みんなピアノのために「24の前奏曲」を作曲している。

 これはずいぶん奇妙なことに思えるかもしれない。なぜ前奏曲なのか。そして、なぜ24なのだろう。

 前奏曲というからには、なにかの前奏であってほしいもの。前菜があってメインディッシュがあるように、あるいは前書きがあって本編が続くように、なにかの前にあるから前奏曲と呼ばれるはず。しかし、ショパンもドビュッシーもスクリャービンもショスタコーヴィチも、どの前奏曲集も前奏曲だけが集められていて、前奏に続く「なにか」がない。これでは次から次へと前書きばかりが並んでいて、いつになっても本編が始まらない物語みたいなものではないか。いったい本編はどこに!?

 いや、そうではないのだ。前奏曲集はそれ自体で自己完結した作品なのだ。本来、前奏曲はなにかの前置きとして書かれるものだった。礼拝の最初に演奏されたり、組曲などたくさんの楽章から構成される曲の冒頭に演奏されたり、オペラの導入として演奏されたり、フーガの前に置かれて対をなしたり。ところが19世紀以降は、導入の役割を持たない、ピアノのための独立した楽曲として前奏曲が書かれるようになってきた。前奏曲には特に決まった形式があるわけではなく、傾向としては即興的だったり幻想的だったりするような自由なスタイルの小品が前奏曲と題されている(つまり、ほとんどなんでもありに近いわけだが)。

 では、なぜ24なのか。これは西洋音楽における「調」(キー)が長調と短調とあわせて24種類あるので、そのすべてについて曲を書こうという趣旨で、「24の前奏曲」となっている。1オクターブは12の半音からできている。それぞれの音を主音とする長調と短調があるので、計24種類の調。ハ長調、ハ短調、ト長調、ト短調......等々。

 バッハが書いた鍵盤楽器のための大傑作に「平均律クラヴィーア曲集」第1巻および第2巻がある。クラヴィーアとは鍵盤楽器のこと(ピアノやチェンバロ等)。この「平均律クラヴィーア曲集」には、24のすべての調について「前奏曲とフーガ」が書かれている。ここではたしかに前奏曲は前菜で、フーガのほうがメインディッシュといえるかもしれない。

piano.jpeg

 この聖典のようなバッハの曲集に触発されて、ショパンは24の前奏曲を書いた(なぜいっしょにフーガも書かなかったのだろう? そう......書いていたら、とてもおもしろいことになったにちがいない。でもショパンの時代にフーガは流行していなかった)。広く伝えられるところによれば、ショパンは女流作家ジョルジュ・サンドとともにマジョルカ島へ愛の逃避行を敢行した際に、この地で前奏曲集を作曲したという。風光明媚な旅先の光景が作曲家の創作意欲を一段と刺激した、というよりは、前奏曲の版権の前払い金を旅費の一部に充てていたという切実な事情もあったようであるが。

 バッハの大傑作に続いて、ショパンが「24の前奏曲」を書いたことから、このスタイルが続く作曲家たちによって踏襲されることになった。ショパンに影響を受けたスクリャービンの「24の前奏曲」は、最初から24曲がまとめて書かれたわけではなく、様々な時期に書かれた24曲がひとまとめになっている。ドビュッシーの場合は、24種類の調にこだわってはいないので、もはや24曲である必然性はないようにも思えるのだが、第1巻の12曲と第2巻の12曲を合わせて24曲が書かれている。ショスタコーヴィチは「24の前奏曲」を作曲したうえで、さらに後年に「24の前奏曲とフーガ」も作曲している。前者はショパンの前奏曲集、後者はバッハの「平均律クラヴィーア曲集」にその源流をたどるべき作品ということになるだろうか。

 ぜんぶの調について曲を書く、というアイディアは作曲家の創作意欲を大いに刺激するものであったにちがいない。24の異なるキャラクターを持った、意匠を凝らした小品が並べられる。聴く側ににとっては、いったい次はどんな作品が出てくるのかとワクワクさせられる。

 たとえるなら、凝った点心をたらふく食べてお腹いっぱいになるようなぜいたくとでもいえるだろうか。


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