HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2014/03/10

《兵士の物語:語られ、演じられ、踊られる》
――ロシア音楽の伝統からの飛躍

文・中田朱美(音楽学)

ストラヴィンスキーとロシア的なるもの

 20世紀モダニズムを牽引しつつ、様々なイズムを通り抜けた作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)。彼は1914年にロシアからスイスへ、1920年にフランスへ、1939年にアメリカへと移住し、ヨーロッパからアメリカへと横断しながら、激動の20世紀を生きた。

 ストラヴィンスキーに国外移住のきっかけを与え、企画成功者としての手本的な存在になったのは、ロシア・バレエ団の興行主セルゲイ・ディアーギレフ(1872-1929)である。ディアーギレフがバレエ団に「ロシア」を冠したのは、単にロシア人アーティストによる公演だったからではない。ロシア国内で文化行政あるいは美術アカデミーの要職に就く可能性もあったディアーギレフは、1900年代に入ると、外国でのロシア文化の紹介にその愛国的な情熱を注いだ。それは「本物のロシア」を見せてパリの観衆を魅了しようとする情熱であった。そして結果的に、彼の旺盛な活動によって欧米でのロシア音楽に対する関心が広がり、ひいてはそのイメージが共有されていったのである。

 当然のことながら、ロシア国内の「ロシア」のイメージと、外国でのそのイメージは必ずしも同じではない。当初、ディアーギレフがパリの音楽界に刻印した「ロシア」のイメージは、多分にエキゾティックで官能的な側面が強調されていた。当のロシア国内では、これらはいわば「(帝政ロシアの中に組み込みたい)他者としての東方」の要素として認識されていたものである。

 やがて1910年代に入ると、フォークロアと密に結びついたロシア文化の紹介へと、ディアーギレフの触手が動く。これが、ちょうどストラヴィンスキーがディアーギレフとの活動を始めた時期にあたる。この頃に着手されたストラヴィンスキー作品には、先達がちりばめた「ロシア的なるもの」の要素が陰に陽に散見される。20世紀音楽史の記述の中では、原始主義や(新)民族主義と語られてきた一連の作品群である。

ストラヴィンスキーとロシア・フォークロア

 ストラヴィンスキーはまず、ロシア・バレエ団から委嘱された三大バレエ《火の鳥》(1909-10)、《ペトルーシカ》(1910-11)、《春の祭典》(1911-13)で一躍ヨーロッパの音楽界に名乗り出た。この三大バレエで色濃くちりばめられているフォークロアの要素は、大きく2つの軸から見ることができる。1つは題材で、『火の鳥』や『不死身のカシチェイ』といったロシア民話、ロシアの民間暦やマースレニッツァ(ロシアの春を迎える民祭で、謝肉祭にあたる)、民間儀礼やスラヴ神話などである。もう1つは音楽的な素材で、民謡の調べや、西洋の音楽理論で言うところの変拍子やポリリズム、そして即興的に紡がれる民俗音楽に由来する、核となる音がコロコロと入れ替わる「音の機能」の可変性、楽譜に起こせば不規則だが響きからはたしかに体感される執拗な反復性、などである。

 これらの要素はいずれも、19世紀の国民楽派の作曲家たちが国内の聴衆に向けて発信し、共有していた「ロシア的なるもの」の一部である。ストラヴィンスキーはこれらを先達から大いに吸収し、時代を経て、今度は国外の聴衆に向けて、異質さを醸すための絶妙な装置として用いたのである。特に音楽では、上記のような要素を前衛的な手法と合成させ、独自の音楽語法を獲得することに成功している。

 そして《春の祭典》後まもなく、ストラヴィンスキーは、フォークロアから3つ目の軸を抽出する。それが西洋音楽の既存のジャンルに縛られない、自由な演奏形態としてのあり様であった。その好例が、1918年に創られた《兵士の物語》である。

《兵士の物語》はジャンル不明の移動劇場

 普段、オペラや交響曲や弦楽四重奏曲といったジャンル名は、どのように演奏される作品かを端的に伝えてくれる。器楽曲、声楽曲という大枠でもいい。しかし《兵士の物語》のジャンル名は何かと改めて考えると、はたと困ることになる。この曲のジャンル名はある時は舞台音楽、またある時は劇音楽、バレエ音楽などと語られ、決して定まることがない。それもそのはず、副題に〈語られ、演じられ、踊られる〉とあるように、演奏形態の分類が不可能な、いわば混合型なのである。初演時のポスターにも、ジャンルにあたる表記はない。

 登場人物は、兵士・悪魔・王女・語り手の4人。王女に台詞はない。一方、王女と悪魔には踊りの場面がある。また語り手と悪魔の一部の旋律には、音高の指示こそないものの、複雑な変拍子に満ちたリズム(韻律)が明記されている。そして音楽は、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーン、ヴァイオリン、コントラバス、打楽器奏者という小アンサンブルによって演奏される。彼らも登場人物たちと共に舞台上に配置するよう、楽譜上には配置図が記載されている。

 これは身体的な動きと一体となって響きを感受してもらうための工夫であろう。《春の祭典》のあの並々ならぬ躍動感はもちろんのこと、歌と踊りの道化芝居《狐》(1915-16)、歌つきのバレエ《プルチネッラ》(1919-20)、歌つきのバレエ《結婚》(1914-23)の構成や舞台配置にも、同様の意識を認めることができる。

 さて、こうした混然とした演奏形態の源泉として考えられるのが、中世のロシアにあった「移動劇場」の文化である。その担い手は、スコモローヒという放浪楽士たち。スコモローヒは、楽器演奏者、歌手、語り手、吟じ手、踊り手、奇術師であっただけでなく、アクロバティックな芸、動物調教師(熊使い)、喜劇、人形劇、見世物小屋の演者でもあった。つまり非常に芸達者な職業音楽家だったのである。ロシアでは10世紀末にキリスト教が国教化されたが、それ以前の民間儀礼の伝統も並存する形で残っており、この民衆文化に根付いた、人々の集まる処(例えばお祭りなど)に登場しては大いに場を盛り上げたのが、スコモローヒであった。

 スコモローヒは教会から敵視され、17世紀にモスクワ公国から追放されたため、まもなくその文化は衰退した。しかし彼らが伝承した英雄叙事詩ブィリーナや楽器の一部、そのイメージは後世に残り、後の作曲家たちの創作において「ロシア的なるもの」の一要素として用いられたのである。特に有名なのは、リムスキー=コルサコフの《サトコー》(1867-97)やボロディンの《イーゴリ公》(1869-87)である。ストラヴィンスキーの《ペトルーシカ》でも、第1場の謝肉祭の場面で、入れ替わり立ち代わり登場するのが、スコモローヒと思しき芸人たちである。

 そして《兵士の物語》の副題「語られ、演じられ、踊られる」とは、まさにこのスコモローヒの芸態そのものにほかならない。演出によっては、演奏者と登場人物たち、あるいは話者と踊り手といった垣根がふいに消える瞬間があり、テンポよく転換していく本作のエンターテイメント性は観る者にはたまらないものがある(演者はさぞ大変にちがいない)。音楽は、三大バレエのときのような前衛的な響きではなく、随分と調性的で、行進曲、舞曲などの形式観も明快である。そのためこの作品から次の新古典主義の様式に入ったと見なされることも少なくない。他方、リズムや抑揚は相変わらず不規則で、複雑な変拍子に満ちており、ストラヴィンスキー独特の音楽語法も存分に満喫できる。

あらすじ

第1部

 兵士ジョセフが2週間の休暇をもらい、故郷の母親と恋人に会いにいく道中。一休みして背負い袋に入れていたヴァイオリンを弾いてると、向こうから老人になりすました悪魔がやってきた。老人はヴァイオリンと自分の本を交換してくれという。なんでも未来の出来事が何でも書いてある本らしい。交渉の末、老人の家に2、3日滞在して、ジョセフは文字の読み方を教わり、代わりに老人にヴァイオリンの弾き方を教えることになった。

 3日目の朝。約束通り元の場所に戻してもらい、いよいよジョセフは家路を急ぐ。故郷に到着して母親に会いに行くと、悲鳴を上げて逃げられてしまう。今度は恋人に会いに行くと、なんと彼女は別の男と結婚していた。ジョセフはここでようやく、老人のところで過ごしたのが3日ではなく3年だったことを知る。母親は息子の幽霊が現れたと思ったのだ。

 怒るジョセフの前にふたたび老人が現れ、本の御利益を話して聞かせる。ジョセフは本を読み始める。すると読むほどに、金銀財宝がいともたやすく手に入る! 一山築いたジョセフであったが、そこではたと気が付いた。何もかも手に入るということは、何も欲しいものが無いということと同じ。ああ、自分はなんて大切なものを失ってしまったのだろう......。落胆するジョセフ。

第2部

 ジョセフが当てもなく歩いていると、ある日、王様のお触れを目にする。ふさぎ込んだ王女の病を治した者に、王女を娶(めと)らせるとある。兵士は悪魔の邪魔をかいくぐり、ヴァイオリンの演奏で見事、王女の病を治してみせる。だが悪魔は去り際に、この国境を一歩でも出たらその時は覚悟しろ、と不吉な言葉を残していた。

 王女と暮らす平穏な日々。やがて王女はジョセフの故郷を見てみたいと懇願する。そうだな、母親も今の自分だったら分かるかもしれない、そしたら連れてきて、一緒に暮らせばいい、とジョセフ。そこで二人は故郷に向かう。あと少しで国境というところで王女が少し出遅れた。早くおいでとジョセフが振り返ると......。



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