HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/10/23

チェリスト・原田禎夫
第3回 「東京クヮルテット」デビュー!

ノンフィクションライターの一志治夫さんが、チェロ奏者・原田禎夫の音楽活動の軌跡を追う連載『チェリスト・原田禎夫』。第3回では、デビュー間もない東京クヮルテットの奮闘をご紹介いただく。

文・一志治夫(ノンフィクションライター)

 「ミュンヘン国際音楽コンクール」で優勝した「東京クヮルテット」(原田禎夫(Vc)、原田幸一郎(Vn)、名倉淑子(Vn)、磯村和英(Va))は、その直後の1970年10月、ニューヨークのタウンホールでデビューリサイタルを開いた。

 タウンホールの演奏会終了後、2人の原田は、秋風舞うタイムズスクェアーを明け方までやみくもに歩き回った。朝5時を過ぎれば、スタンドにはニューヨークタイムズが並ぶはずだった。新聞を手にし広げると、果たしてそこには、前日の日本人カルテットの演奏を賞する記事が出ていた。

 実は、このときの演奏を、原田禎夫は、ホールに依頼してレコーディングしている。録音には800ドルもの大金が必要だったが、原田は、ナッシュビル時代に稼いだなけなしの金をはたいてこれに当てた。

「なんとなく、これは録っておいた方がいいだろうな、と思ったんです。ただ、いつの間にかそのマスターテープのことは忘れてしまった。で、つい最近になって、ふとした拍子にテープのことを思い出したんです。もうダメかも知れないと思いながら、息子にテープを渡してCDに落としてもらったら、音源は無事だった。音質は悪かったけれど、そんなことよりも無我夢中でやっていた頃の音が蘇ったことが嬉しかった」

 切羽詰まった中から出てくる圧倒的なエネルギー、若者のひたむきさが伝わってくる音色。思わず、出口の見えない中を突っ走っている若き日の自分に声をかけてやりたいような気持ちになっていた。原田は、こみ上げてくるものを抑えられなかった。アルバン・ベルグの弦楽四重奏曲作品3、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第10番《ハープ》作品74、バルトークの弦楽四重奏曲第1番。未熟であることは間違いないが、思ったよりずっといい演奏だったことも驚きだった。CDを聴いた原田幸一郎も、やはり泣いた。死ぬほど練習し、未来に向かって駆けだしていた日々が2人の脳裏に浮かび上がってきたのである。

 幸先のいいスタートを切った「東京クヮルテット」は、少しずつ、その名を世界に広めていく。もっとも、当人たちには、まだ名前を売り込もうという野心はさほどなく、むしろ自分たちの音楽スタイルをいかに確立するかで必死だった。

 翌1971年、東京クヮルテットは、ツアーに出る。オーストリア、ドイツ、イタリア、オランダ、イギリス、ルーマニアなどを回る60日間45公演。ときに、現地でラジオ出演もこなさなければならなかったから、尋常でなくハードな演奏旅行である。ただひたすら移動し、演奏し、また移動するという毎日。キャスターのないスーツケースにチェロを抱えての移動である。当時のチェロケースは木製で、これを両手で持つと肩はぱんぱんに張ってしまった。不慣れな旅、未知の場所での演奏会、蓄積していく疲労に、ついに限界にきたメンバーはポルトガル公演をキャンセルしてほしいとマネージャーに懇願せざるを得なかった。

 とにかく、あらゆることのペースがわからず、それでも練習は欠かせないという黎明期ならではのツアーだった。耳の肥えたヨーロッパの聴衆を相手にするプレッシャーが演奏会のたびにのしかかってきた。それは、「毎回日本人4人で、ステージに腹を切りに行くみたいな感じ」だった。

 ギャラは、マネージャーを入れて完全に5等分された。つまり、1人20パーセントが取り分である。ホテル代、交通費などの必要経費を引くといくらも残らなかった。こののちおよそ10年間は、金銭的には苦しい時代が続く。

 その一方で実に学ぶことの多い時代でもあった。

「僕は音楽的にもテクニック的にもすごく硬かったから、それをいかに柔軟にしていくかが当時の課題だったんだけど、それはすべて演奏会で学んだ。リラックスして演奏してみようとか、試行錯誤しながらやっていた。その数が半端ではなかったから、回を重ねるごとに机では学べないことの体験が糧となっていった」

 1973年、東京クヮルテットは、凱旋帰国し、大阪フェスティバルホールでコンサートを開いた。チェロの師である齋藤秀雄、評論家の吉田秀和も聞きに来た。演奏終了後、楽屋にやってきた吉田から「チェロいいね、よく聞こえるね」と褒められたことが嬉しかった反面、ここでもやはり、齋藤からは芳しい言葉をもらうことはできない。それどころか、東京に戻って会ったとき「お前ね、幸一郎に感謝しないといけないよ」と言われたのである。もちろん、原田自身、幸一郎に対しては、人間としてリスペクトしていたし、音楽面で感謝もしていた。それは4人がそれぞれ思っているはずだった。けれども、東京クヮルテットは、やはり、自分あってのもの、という自負も同時にあった。グループをまとめているという意識が原田の中には強くあったのだ。

 結局、齋藤が原田を褒めることは一度としてなかった。真相は、齋藤が亡くなったいまとなっては、謎のままなのだが。いずれにしても、この齋藤の原田に対する冷厳な態度で、原田はこののちずっと自信を喪失し、自分の存在感をも疑いつつ演奏を続けることになる。

 東京クヮルテットの世界ツアーはその後も続いた。旅のエピソードにはこと欠かない。

 イタリア・ポンペイに行ったときのこと、夜の演奏会までは時間があるということで、息抜きで原田幸一郎と磯村和英とともにポンペイの史跡巡りに出ることにした。

 この当時、東京クヮルテットは、アメリカの美術館から名器ニコロ・アマティを借りていた。アメリカのすごいところは、そんな高価で由緒正しい楽器をぽんと貸し出し、世界中どこにでも持って行っていいとしている点だった。さすがに、そんな至宝をイタリアのホテルに残していくわけにはいかない、と3人はめいめい楽器を手に史跡見学へと向かった。

 いざ、タクシーが史跡に着くと、タクシー運転手から「チェロを持って歩くのは、無理だ。俺がここで待っているから置いていけ」と勧められた。原田は言われるがままにした。3人は古代遺跡を回る。が、ある瞬間、もしかしたら、まずいんじゃないか、と思い至る。ここは日本ではなく、イタリアなのだ。タクシーのナンバーすら控えていない。あのまま逃げられたら、と3人は見学を打ち切り、大慌てでタクシーに戻った。そこには、正直者の運転手がちゃんと待っていた。

 楽器に話を戻せば、ニコロ・アマティは、その後、「自分たちは別にいい楽器も手にしたし、若い人に渡して自分たちが味わったような感動をしてもらった方がいいんじゃないか」と、10年ほどが過ぎた頃アメリカに返却した。借り続けようと思えばいつまでも借りることはできたのだが。ちなみに原田がこのとき「手にしたいい楽器」は、ガルネリである。

 この頃、日本人演奏家に対する評価は必ずしも正当なものとは言えなかった。

 たとえば、イギリスで刊行された音楽事典の「東京クヮルテット」の項には、こうあった。

「ものすごくよく弾くけれど、エモーションに欠ける」

 原田からすれば、それはまったく逆だった。どちらかと言えば、自分たちは「情緒」だろうと思っていたのだ。ちゃんと聴いていないか、あるいは偏見か、そのどちらかだろうと原田は感じざるを得なかった。

 原田は、むしろ、現在の音楽をこう批判する。

「最近よく、クールな演奏家が一晩でバッハの無伴奏を6曲弾いたり、バルトークの四重奏を6曲弾いたなんていうのがあるけど、僕からすれば信じられない。バルトークなんて1曲本気で弾いたら、くたくたになるよ。僕はそんなグループはちっとも尊敬しない。それは、時代が違うということなのかもしれないけれど」

 東京クヮルテットは、メンバーを代えながら、その後も演奏活動を続けていく。

 一方、時間の経過とともに、原田禎夫の中では、小さな違和感がふくらみ始めていた。音楽に対する姿勢のズレがメンバーと間で徐々に染み出してきたのである。



第1回 恩師・齋藤秀雄 |  第2回 「東京クヮルテット」誕生前夜 |  第3回 「東京クヮルテット」デビュー! | 
第4回 世界をめぐる「東京クヮルテット」 |  第5回 東京クヮルテットとの別れ | 最終回 終わることのない旅


~関連公演~
原田禎夫チェロ・シリーズ
【2014】
【2013】
【2012】

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