HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/11/30

チェリスト・原田禎夫
第4回 世界をめぐる「東京クヮルテット」

ノンフィクションライターの一志治夫さんが、チェロ奏者・原田禎夫の音楽活動の軌跡を追う連載『チェリスト・原田禎夫』。1970年代、80年代と"世界を股にかけて"活躍していた東京クヮルテットであったが、原田禎夫のなかにはある苦悩が満ち始めていた......。

文・一志治夫(ノンフィクションライター)

 1969年にデビューした東京クヮルテットは、1970年代に入ると、さらに活動の舞台を広げていく。唯一といってもいい東洋発のクヮルテットには、それこそ世界中からお呼びがかかった。

 70年代初頭には、ヨーロッパツアーに続いて南米ツアーも敢行した。エルサルバドル、パナマ、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ......。まだ、マネージメントに対する知恵もさしてなく、必要経費を差し引くとメンバーひとり頭50ドルしか入ってこないような環境下での演奏だった。

 「世界を回るカルテットって、一種の文化使節みたいなところもあるわけです」と原田禎夫が言うように、それは、日本人の文化力を発露する場でもあった。当時の日本にとっても、下手な外交よりよほど意義深いはずだった。が、ミュンヘンのコンクールでそうであったように、相変わらず、日本政府は文化に対してはまったくと言っていいほど無理解だった。支援らしい支援はなされなかったのだ。

 東京クヮルテットは、ホワイトハウスに参じ、当時の米国大統領ジミー・カーターの眼前で演奏する機会も得ている。だが、ここでもやはり、日本国の政府は原田たちに対して、リスペクトすることも、手をさしのべることもなかった。ホワイトハウスには、日本から福田赳夫首相が来ていたのだが、彼は同胞の四重奏に一切関心を示すことはなく、ただタバコをふかしているだけだったのだ。その品性のなさがひどく印象的だった。

 「そのとき、ラヴェルかなんかを2曲演奏したんだけど、クラシック好きのカーター大統領は嬉しそうに聴いていた。感激したのは、2日後ぐらいに『ありがとう。レコードも楽しませてもらってます』いう一文とともにサインつきの手紙がうちのポストに入っていたことだった」

 少しずつメンバーを替えながらも、東京クヮルテットはキャリアを積み続けた。

 そんなある日、発足以来、原田禎夫とともに中心的役割を果たしていた第1ヴァイオリンの原田幸一郎が、こうぼそっと漏らしたことがあった。

 「60になったらどうするんだろう?」

 原田禎夫はその言葉を聞いた瞬間、えっ、こいつはいったい何を考えているのか、と思った。まだ30代の前半だった。ようやく、カルテットとしての地盤を固め始めたばかりのときだったのだ。しかし、裏を返せば、カルテット一本でメシを食っていくことは、それほど容易ではないということでもあった。未来は常に漠としていたのだ。

 結局、盟友・原田幸一郎は、1981年に東京クヮルテットを退団する。原田禎夫にとっては、断腸の思いだった。

 それでも原田は、その後もカルテットの真髄を追い続けた。

 「結局のところ、カルテットでやりたいことをやって、いい演奏をしたい、ということだけしか僕は考えてこなかったんだと思う。金や名声はあとからついてくるもので、目指すものではない。ただ、目の前にあることに対してその場その場で一生懸命やる、それがだんだん結果につながっていくわけでしょ。カルテットが何年続くかとかも考えなかった。人生なんて計画したって、その通りにいくわけがないんだし」

 東京クヮルテットはその後も文字通り世界中を回り続けた。

 原田にとっての転換点は、原田幸一郎に替わって入ってきたピーター・ウンジャンが辞めざるを得なくなったときだった。10歳年下のピーターの加入は、それまでの東京クヮルテットの高いクォリティーに新たなイマジネーションと自由度を与えることになった。

 「ピーターは本当に素晴らしい音楽家だった。でも、ディストニアとかいう病気で、指が思うようにならなくなっていた。最後の演奏会ではベートーヴェンの作品131を弾いたんだけど、弾いているときにエモーショナルになって、涙が出てきちゃって、譜面が見えなくなった。彼とは16年ぐらい一緒にやってきていたから」

 この頃、東京クヮルテットは、年間実に130以上のコンサートを入れていた。もしかしたら、そんな負担もピーターの左手にはのしかかっていたのかもしれない。

 幸一郎、ピーターという名手が抜けたあと、原田は、自分たちの音楽に満足感を味わえなくなっていた。そのあと入ってきた第1ヴァイオリンに対してはどうしても合格点を出せなかったのである。換言すれば、自分たちの演奏の質に対して、疑問を感じ始めていたのだ。一度抱いてしまったしこりは、日に日に大きくなっていった。

 チェリスト原田禎夫の苦闘の日々が始まっていた。90年代が終わりに近づいていた。



第1回 恩師・齋藤秀雄 |  第2回 「東京クヮルテット」誕生前夜 |  第3回 「東京クヮルテット」デビュー! | 
第4回 世界をめぐる「東京クヮルテット」 |  第5回 東京クヮルテットとの別れ | 最終回 終わることのない旅


~関連公演~
原田禎夫チェロ・シリーズ
【2014】
【2013】
【2012】

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