春祭ジャーナル 2012/03/24
チェリスト・原田禎夫
第2回 「東京クヮルテット」誕生前夜
ノンフィクションライターの一志治夫さんに、チェリスト・原田禎夫の魅力をご紹介いただく連載『チェリスト・原田禎夫』。第2回では、東京クヮルテットの結成までを取り上げる。
日本音楽コンクールのチェロ部門で優勝した翌年、つまり1965年、原田禎夫は、日光で行われた約10日間の室内楽の講習会に参加している。スポンサーは、パンナム(パン・アメリカン航空)と米国国務省。タダで金谷ホテルに泊まって練習し、レッスンを受け、ジュリアード弦楽四重奏団の練習を自由に見学できるというこの時代としては画期的なイベントだった。招待されたのは、テープ審査を通った12組の日本人のカルテットで、原田と同じく20歳前後の若者たちばかりである。
原田は、この講習会にその後東京クヮルテットを組むことになるヴァイオリンの原田幸一郎と他の二人(東京クヮルテットには入らず)とともに参加した。二人の原田は、講習の終わりに、ジュリアード弦楽四重奏団のロバート・マンから「お前ら、本気でカルテットをやる気はないか。日本にもいいカルテットをつくるべきだ。手助けはするから」と声をかけられる。原田禎夫が「遊びでやっていたカルテットを、本気で職業にしたい」と思うようになったのは、マンのこの言葉を受けてからである。
講習会から2年が過ぎた67年6月、原田は、アメリカのコロラド州アスペンへと渡る。マンが手を回してパンナムのチケットを用意してくれたのだ。当初、原田幸一郎も渡米する予定だったが、齋藤秀雄にとめられて果たせず、原田禎夫だけが「アスペン音楽祭・夏期講習」に行くこととなった。わずか50ドルを握りしめての、観光ビザでの入国である。講習会は約2ヵ月にわたって行われた。
当初原田は、講習を終えて帰るつもりだった。両親にもそう伝えていたし、金もない。が、南部テネシー州のナッシュビルでチェロ弾きを探しているという話が、マン経由で耳に入ってくる。現地では、カルテット以外にもエキストラでオーケストラの仕事があるということだった。すでに手持ちは尽きていたが、400ドルをやはりジュリアード弦楽四重奏団のラファエル・ヒリヤーの日本人妻から借りて向かうことにした。観光ビザもワーキングビザへと切り替えた。
2ヵ月で帰ってくるものだと思っていた東京交響楽団の団長に連絡して状況を説明すると、「1年間はお前の名前を残しておくから、帰ってこられたら帰ってこい」と猶予してくれた。
原田はこうして、当時、日本人などまず見かけることのないナッシュビルで、実にさまざまなジャンルの音楽と出会い、積極的に関わっていく。
たとえば、原田はカントリーウェスタンにも参加した。それまでは、この地のポップスのバックグラウンドにおいてチェロのような弦楽器を使うことはほとんどなかったが、この頃から弦楽器を取り入れるようになっていた。原田にとって、カントリーウェスタンはさほど難しいものではなかった。歌手が高音を出せず、その場ですぐに転調しなければならないということもあったりしたが、それもすでに日本で経験済みだった。美空ひばり、橋幸夫、春日八郎といった歌手のスタジオレコーディングを何度も経験していたのだ。
68年に参加したダウンタウンでのセッションも原田の記憶に強く残っている。指定場所に行ってみると、いつになくたくさんのお客さんが集まっていて、いったい何事かと思っていると、ボブ・ディランが現れたのだ。原田は、ボブ・ディランのバックで、チェロを弾いた。
どこでも報酬は抜群によかった。ワンセッション80ドル(1ドル=360円)はもらえた。借りた400ドルはすぐに返した。もちろん、当初の目的であったオーケストラにも首席奏者として参加した。当時、団員の半分は、アマチュアだった。
「ナッシュビルはお金を貯める期間と完全に割り切っていた。カントリーウェスタンに加わったのも、半分アマチュアのオーケストラでやっていたのも、それが理由だった。ユニオンにもなんとか入ることができて、2年半でそれなりに貯めることができたんです」
貯金を握りしめて目指したのは、ニューヨーク。24歳の原田は、全額給費生としてジュリアード音楽院に入学する。もちろん目的は、マンをはじめとするジュリアード弦楽四重奏団に直接教えを請うことである。最初は68丁目の日の当たらぬボロアパート、続いて102丁目のアパートで原田幸一郎と暮らした。決して贅沢はできなかったが、生活には困らなかった。
原田は、この時期、ジュリアード音楽院にいたロバート・マン、ラファエル・ヒリヤー、クラウス・アダムから実に多くのことを学ぶ。
「アダムさんはものすごく優しい人だった。齋藤先生からダメだダメだと言われていて、アダムさんからはすごく褒められるから、最初は、大丈夫かな、この先生と思ったぐらいだった。僕が日本に帰国した後も、ときどき習ったけれど、一切月謝はとらない先生でした」
このとき原田を貫いていたのは、「カルテットをやりたい」という強い思いである。カルテットをやることによって、どれだけ経済的に苦しくなるか、将来が安定しないか、という考えには及ばない。そこにあるのは、ただただ純粋にカルテットをやってみたい、その熱意だけだった。
ジュリアード弦楽四重奏団からの確かな薫陶を授かった原田は、1969年夏、ようやく帰国する。
「あのアメリカでの経験は本当によかった。親元から離れて、何かどこかでひとり苦労してみたいという願望があったんだよね。言葉もできないし、金もなかったけれど、いろんな人が助けてくれた」
1969年9月、ヴァイオリンの原田幸一郎、名倉淑子とヴィオラの磯村和英とともに原田禎夫は、「東京クヮルテット」を結成する。もっとも、結成当初は、グループ名はなく、1970年に参加するミュンヘンのコンクール出場時に必要ということで名前をひねり出したのだが。
以後、30年間にわたって、原田禎夫は、「東京クヮルテット」で世界中を駆け回ることになる。
次回からは、「東京クヮルテット」の旅をしばし追う。
第1回 恩師・齋藤秀雄 | 第2回 「東京クヮルテット」誕生前夜 |
第3回 「東京クヮルテット」デビュー! |
第4回 世界をめぐる「東京クヮルテット」 |
第5回 東京クヮルテットとの別れ 最終回 終わることのない旅
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