HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/03/17

チェリスト・原田禎夫
第1回 恩師・齋藤秀雄

今年から「原田禎夫チェロ・シリーズ」がスタートする。チェリスト・原田禎夫は、30年にわたり「東京クヮルテット」で活躍し、同団を退いたあともソリスト、室内楽奏者、オーケストラ奏者、そして教育者として音楽界の第一線に立ち続けている。本連載『チェリスト・原田禎夫』では、ノンフィクションライターの一志治夫さんに、原田禎夫の魅力を存分に語っていただく。第一回は、齋藤秀雄から厳しい指導を受けた若き日にスポットをあてる。

文・一志治夫(ノンフィクションライター)

 サイトウ・キネン・オーケストラは、1984年、齋藤秀雄の没後10年を記念して開かれたメモリアルコンサートにおいて結成された。小澤征爾を筆頭にメンバーは皆、齋藤の門下生たちである。もちろん、原田禎夫も門下生のひとりだった。

 ただし、原田が1992年に始まったサイトウ・キネン・フェスティバル松本にオーケストラの一員として初めて参加したのは、2000年と遅い(カルテットとしては99年)。99年までは、東京クヮルテットのメンバーとして世界中を回っていたからである。

 が、実はフェスティバルに参加するにあたって、原田は逡巡した。どうしても二つ返事で参加する気にはなれなかったのである。

 話は、一気に1955年までさかのぼる。

 原田が初めて齋藤に教えを受けたのは、11歳のときだった。NHK交響楽団のチェリストだった父・原田喜一が齋藤に師事していて、半年間自ら手ほどきしたあと、師のもとへと息子を送り込んだのである。

 子ども用の2分の1チェロを手に、週一回、原田は齋藤の自宅がある麹町一番町へと通い始める。当時、原田の自宅は中延にあったから、大井町から新橋まで出て、その後都電を乗り継いで半蔵門で下車するという、子どもにとっては気が重い長旅である。待ち受けているのは、半端なく厳しいレッスンなのだ。

 ある日、半蔵門で電車を降りて、嫌だなあと思いながら千鳥ヶ淵公園の中を歩いていたときのことだった。何かに躓いて、少年は転んでしまう。その拍子にズックの布ケースに包まれたチェロが地面にしたたか打ちつけられた。齋藤宅に到着し、チェロを取り出してみると、案の定、指板が首からはがれていた。当然、齋藤からは叱責されたが、原田としては、少し嬉しくもあった。というのも、「これで今日のレッスンはなくなる」と思ったからだ。しかし、そこからの齋藤がすごかった。はがれた指板を米粒をつぶした糊で必死にくっつけようとしばらく奮闘し続けるのだ。結局、指板がつくことはないのだが、その懸命に作業する齋藤の姿は、少年の目に強く焼き付くこととなった。

 齋藤は、とにかく厳しかった。遅刻はもちろん許されなかったが、逆に、15分早く着いてしまうと、それはそれでまた叱られるのだ。だから、早く着いたときは、公園で時間をつぶして、ぴったりに入っていかなければならなかった。

 レッスンは辛いものとなった。原田には、とにかく怒られ、小言を言われたという記憶しかない。ダメだダメだと言われ続け、褒められた覚えが一切ないのだ。実際、振り返って見れば、自分は不器用だったのだと思う。一緒に始めた子たちはどんどんうまくなっていったのもまた事実なのだ。

 原田にとって、救いだったのは、父親が小言を言ったり、練習をしろと尻を叩かないことだった。もし、家に帰ってまで叱咤されたら、チェロはやめていただろう、と原田は思う。

 齋藤の厳しいレッスンは桐朋学園に進んでも続いた。大学を出てアメリカに渡るまで、ずっと葛藤は止むことはなかったのである。

 原田は、19歳のときに日本音楽コンクールのチェロ部門で優勝している。が、それでも、齋藤は、原田を褒めることはなかった。コンクールのあとに投げかけられたのは、祝いの言葉ではなかった。齋藤は、こう言ったのだ。「お前は1位になるはずじゃなかったんだよ」――。

 師からの容赦ない言葉によって、原田は完全に自信を喪失してしまう。他の人から賞賛の言葉を浴びても、その言葉すら信じられないほどの重症だった。そしてその自信のなさは、「ステージ・フライト」となって表れた。つまり、ステージ上で"あがってしまう"のだ。「お前はダメだ」と言われた言葉が蘇ってくるのである。

 その後、アメリカに渡った原田は、ある心理学者のもとを訪ねる。「ステージ・フライト」を解消しようとしたのである。

 その心理学者は、原田を椅子に座らせ、齋藤が座っていると仮定して、問答をさせた。「なぜあのとき先生はああ言ったのか」とそこにはいない齋藤に問い、ときに言い募ったりするのである。それに対して、今度は、原田自身が齋藤の立場になって答えるという奇妙な療法だった。心理学者からは「人から褒められたらサンキューと受け入れなさい」といったアドバイスも受け、次第に齋藤からの呪縛は薄れていった。

 その心理学者から、父親と10代の頃の辛かったことを話せと勧められた原田は、夏休みにアメリカから帰国したときに実行する。息子は、父親に「あのとき一緒にやっていた洸ちゃん(岩崎洸)とか、みんな回りは優秀な人ばかりで、僕はもたもたしてて、どう思ってた?」と尋ねた。すると、父親はこう答えた。「いや、俺は、お前を信じていたよ」――。息子は思わず落涙していた。

 齋藤に怒られる夢ばかり見ていた原田が穏やかな顔をした齋藤と普通に話している夢を見られるようになったのは、50代を迎えてからである。サイトウ・キネン・オーケストラへの参加を促されて、原田が躊躇したのは、そんな複雑な思いがあったからである。傷を癒すには、思いのほか時間がかかったのだ。

 もちろん、齋藤からは、怒られるだけでなく、チェロの真髄を学んだ。厳しい分、原田の身体には音楽の基礎が叩き込まれた。なんといっても、一番多感で吸収力があるときに10年間も随一の師と接していたのだから。

 10代後半から20代前半、つまり、69年に東京クヮルテットを結成するまでの数年間は、原田がプレーヤーとして著しく伸長した時期だった。東京交響楽団の最年少首席奏者となったり、日光の講習会でジュリアード弦楽四重奏団の演奏を聴いて刺激を受けたり、アメリカに渡ってナッシュビル交響楽団で活躍したり、実に多くの滋養を得るのである。美空ひばりのレコーディングに参加したり、ボブ・ディランと一緒にステージに出たりなんていうエピソードもある。次回は、そんな東京クヮルテット結成に至るまでに触れてみよう。



第1回 恩師・齋藤秀雄 |  第2回 「東京クヮルテット」誕生前夜 |  第3回 「東京クヮルテット」デビュー! | 
第4回 世界をめぐる「東京クヮルテット」 |  第5回 東京クヮルテットとの別れ | 最終回 終わることのない旅


~関連公演~
原田禎夫チェロ・シリーズ
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【2012】

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