HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2015/02/27

アーティスト・インタビュー
~リュドミラ・ベルリンスカヤ(ピアノ)【前編】

東京春祭2015「リヒテルに捧ぐ」シリーズにて、リヒテルがこよなく愛したプーランクの舞踊協奏曲「オーバード」を演奏するピアニスト、リュドミラ・ベルリンスカヤ。ボロディン弦楽四重奏団の創設メンバーであった父の紹介でリヒテルと出会い、長年、巨匠の活躍を傍らで見つめたベルリンスカヤに、話を伺いました。ロング・インタビュー前編では、リヒテルとの貴重な思い出の数々に迫ります。

リヒテルに捧ぐⅠ(生誕100年記念)
 舞踊協奏曲《オーバード》
     ~リヒテルが愛したプーランク&モーツァルト

■ブラームスの室内楽~川本嘉子&リュドミラ・ベルリンスカヤ
©Charlotte Defarges
clm_Berlinskaya1.jpg clm_q.png ベルリンスカヤさんは、ボロディン弦楽四重奏団の創設メンバーでお父様でもあられるヴァレンチン・ベルリンスキー氏を介して、リヒテルと親しくなったのですよね?

ええ、そうです。14歳の時にマエストロ・リヒテルに初めて紹介されました。その後、父の練習や、友人たちが集まる会に私も参加するようになり、リヒテルのモスクワのアパートに足しげく通ったのです。今思い起こせば、若い頃からリヒテルのサークルに参加できたことはとても幸運なことです。そうと望んですぐに実現するような、たやすいことではありませんから。父とリヒテルが音楽家として、また人間として尊敬し合っていたからこそ、実現したことだと思います。

clm_q.png その後、リヒテルとはどのような関係を築いていったのですか?

マエストロは常に私に、「ベルリンスキーの娘」としてではなく、一人の個人として接してくれました。彼の口癖は、「ヴァレーチカはヴァレーチカ、ミラはミラだから」でした。(ヴァレーチカは父、ミラはリュドミラ・ベルリンスカヤのこと)。
リヒテルは父と合わせの練習をする際に、私を必ず誘ってくれました。そのような中で、自然とリヒテルの譜めくりを任されるようになりました。音楽家として私は、「譜めくり」を通して、彼の演奏を極めて間近で見聞きし体感することができました。身体の使い方、テンポをコントロールする方法、音の出し方など、ピアニスト・音楽家として必要なあらゆることを、私は文字通り「スポンジのように」吸収しました。
演奏以外の部分でも、私は一人の人間として、マエストロから多大な影響を受けています。彼とは本当によく対話をしました。時に冗談を言い合うこともありましたし、時にマストロが音楽をめぐる最も深い考えを私に打ち明けてくれることもありました。
夫人のニーナさんからも、音楽家として・ピアニストとして多くのことを教えていただきました。彼女に数年間、歌を習っていたこともありますし、彼女の弟子たちのレッスンを、私がピアノ伴奏者としてお手伝いする機会も多々あったのです。

clm_q.png 最も心に残っているリヒテルとの思い出は何ですか?

沢山ありすぎます!(笑)それでもやはり、最も心に残っているのは彼の演奏会にまつわる思い出です。偶然でしょうが、印象深かった公演に限って録音が残っていないのです...。
モスクワ音楽院の大ホールで行われたコンサート・シリーズで、リヒテルが弾いたシューベルトのソナタ。ただただ素晴らしかったです...
私が初めてキエフを訪れたのはマエストロに同行した時でした。公演前にも関わらず、私に徒歩でキエフの街中を案内してくれました。市場や教会...素敵な光景でした。キエフでリヒテルが弾いたシューマンの「幻想曲」は、私が聴いた最も芸術的な「幻想曲」です。私はこの「幻想曲」を弾くマエストロのために何度も譜めくりをしましたし、マエストロは少なくとも2度、この作品を録音しているはずです。しかし、あの時のキエフでの「幻想曲」こそが最も素晴らしい演奏であったと断言できます。
クリンへの演奏旅行も印象深い思い出です。マエストロがチャイコフスキー・ミュージアムで、チャイコフスキーが所有していたピアノで演奏したのです。部屋は小さく、聴衆は40人ほどだったと思います。ピアノは古いものでしたが、会場を気に入ったマエストロの演奏は天才的でした。コンサートの前に、マエストロは私を小さなボートに乗せて、自ら漕いでくれました。演奏会後の夜、マエストロが学生部屋で練習したいと言うので、私はユーリ・ボリソフらと一緒にマエストロに同行して、練習が終わるのを待ちました。素敵な思い出でしょう?

clm_q.png 旅と言えば、リヒテルが日本を好きだったことは有名です。日本に関して何かエピソードはありますか?

リヒテルは旅に出ると、必ず自分で沢山のお土産を買いました。旅から戻る彼のスーツケースはいつも友人たちへのお土産で一杯だったのです。私もその例に漏れず、毎回、お土産をいただいていました。特に日本のお土産は楽しみで、最も記憶に残っているのは、日本風の絵柄が入った美しいシルク製のスカーフです。

clm_q.png リヒテルとの共演についてお話しください。「譜めくり」から演奏のパートナーになったきっかけは?

まず、私を芸術家とみなしてくれた最初の・唯一の人物がリヒテルであったということをお伝えしたいと思います。両親や教師よりも、私の芸術的・人間的な可能性を信じてくれたのがリヒテルでした。
リヒテルと公の場で初めて共演したのは1985年、リヒテルの音楽祭「12月の夕べ」においてです。ある晩、自宅の電話が鳴りまして、出てみたらどこかで耳にしたことのある男性の声なのです。「こんばんは、ミラ!」というので、「ええと...どちら様ですか?」と答えましたら、「僕の声がわからないのかい?」と。(注:リヒテルは電話を使わないことで有名だった)誰だかわからず、私が電話口でモゴモゴしていましたら、ユーリ・バシュメットが代わりに出まして、「スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ(・リヒテル)の声が分からないのかい?とにかく誰にも言わずに彼のアパートに来てくれ。」と。訳が分からないまま、リヒテルの家に着いた私に、彼は笑顔でシューマンの「東洋の絵」の譜を手渡してくれました。「どう思う?一週間で準備できるかい?」というので、私は意味が分からないまま「もちろんよ!」と答えました。「じゃあ、明日、一度合わせよう。誰にも内緒だよ」と。その時ようやく、「12月の夕べ」でリヒテルと連弾できると言うことが分かりました。
公演当日、リヒテルはリサイタル前半を終えたところで、「シューマンを今すぐ一緒に弾ける人はいませんか?」と聴衆に話しかけました。そして少しの間の後に、まるで偶然のように私を共演者に指名したのです。面白い演出でしょう?

clm_q.png 「12月の夕べ」にはその後、何度も出演なさっていますね。

私にとって最も重要であるのは、リヒテルがこの音楽祭に注いだスピリットです。生前、彼は音楽祭会期中に至る所に出没しました。プログラムを考えたり、自分自身の演奏の準備をしたりするだけではなく、彼は全てに気を配りました。あらゆる公演のステージのセット、照明、ドレス・コード、リハーサル、サプライズ企画、広報、聴衆とどのように繋がるか・・・リヒテルのそうした気配りのお陰で、魔法がかった様な独特のムードが、音楽祭を満たしました。

clm_q.png リヒテルの他界後も続いている「12月の夕べ」。ベルリンスカヤさんはどのような思い入れがありますか?

別の年の「12月の夕べ」音楽祭では、マエストロがブリテンの「ねじの回転」をプーシキン美術館で上演することを決めました。彼自身がピアノ・パートを担当することになっていました。私が何度か代理で、リハーサルでピアノを弾いたのですが、ゲネプロの際に彼が私のもとにやってきて、本番でも私が代わりに弾くようにと、突然に言ったのです。もちろん、私はその通りに演奏しました。その場でふと思いついたのだと思いますが...、マエストロは、本当に予測不可能な人です!


~関連公演~
リヒテルに捧ぐⅠ(生誕100年記念)
舞踊協奏曲《オーバード》~リヒテルが愛したプーランク&モーツァルト

ブラームスの室内楽~川本嘉子&リュドミラ・ベルリンスカヤ

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