HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2013/02/04

ようこそハルサイ〜クラシック音楽入門~
ジュゼッペ・ヴェルディ:オペラに生涯を捧げた作曲家

文・後藤菜穂子(音楽ライター)

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ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)

 ジュゼッペ・ヴェルディは今から200年前にイタリアのパルマ公国のブッセート近郊の村で生まれました。同じ年に、19世紀の二大オペラ作曲家となるヴェルディとワーグナーが誕生したというのは運命のいたずらでしょうか。二人とも生前にオペラ作曲家として高い名声を得たにもかかわらず、一度も会うことがなかったというのも因縁めいています。
 ヴェルディは生涯、生まれ故郷に強い愛着を抱いていました。地元の音楽家プロヴェージから音楽の手ほどきを受けたのち、しばらく町の音楽監督も務めました。そしてブッセートの良家バレッツィ家の娘マルゲリータと恋に落ち、1836年、23歳の時に結婚。若きカップルには二人の子供が生まれましたが、いずれも二歳になる前に病死し、さらに不幸にも1840年に妻も亡くなり、ヴェルディは悲しみのどん底に突き落とされました。そうした絶望を知っていたからこそ、彼のオペラの登場人物の深い悲しみが私たちの胸に迫るのでしょう。

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スカラ座ホワイエのヴェルディ像


 妻を亡くした年、ヴェルディはオペラ作曲家としてちょうど最初の成功をつかみかけていた頃でした。1839年に彼の最初のオペラである《オベルト》speaker.gif[試聴]がミラノ・スカラ座で上演、成功をおさめ、一家でミラノに移り住んだところでした。ところが1840年に二作目の喜劇オペラ《王国の一日》speaker.gif[試聴]がスカラ座で失敗に終わり、家庭の悲劇も加わって、一年半ほど作曲の筆を折ったとのちに回想しています。

 こうして仕事およびプライベートに二重に打撃を受けたヴェルディでしたが、周囲の励ましを得て、再びオペラの作曲に没頭するようになります。そして1842年の《ナブッコ》speaker.gif[試聴]から1853年の《椿姫》speaker.gif[試聴]まで、なんと11年で17作のオペラを次々と発表、イタリアのオペラ界の頂点に上りつめていったのです。その後は少しペースを落としますが、さらに《ドン・カルロ》speaker.gif[試聴]《アイーダ》speaker.gif[試聴]《オテロ》speaker.gif[試聴]などの後期の傑作群が生み出されました。とりわけ最後のオペラとなった《ファルスタッフ》speaker.gif[試聴]は、50年ぶりに手がけた喜劇オペラであった点で特筆に値します。

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カーサ・ディ・リポーゾ

 こうした成功は、もちろんヴェルディの才能と努力の賜物ではありますが、その影にはひとりの女性がいました。その女性の名はジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815~97)。《ナブッコ》の初演でアビガエッレの役を歌ったソプラノ歌手でした。つねに彼のミューズとなり、とりわけ《椿姫》のヴィオレッタには彼女が反映されているように思えます。二人はヴェルディの故郷に近いサンタガタに居を構え、生涯ともに過ごしました(1859年まで正式に結婚しなかったので一時期スキャンダルにもなりましたが)。

 87歳という長生きをしたヴェルディは、晩年に私財を投じてミラノに引退した音楽家のための養老院「カーサ・ディ・リポーゾ」を建て、それは彼の28作のオペラとともに後世への最大の遺産となったのです。

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