HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/02/23

クロイツェルソナタ雑稿

「ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」に出演されるピアニスト、練木繁夫さんの特別寄稿の第二弾は、「クロイツェルソナタ雑稿」。名曲中の名曲《クロイツェルソナタ》誕生の陰には数々のドラマがあった。

文・練木繁夫(ピアニスト)

 ジョージ・ブリッジタワー(1779-1860)は、弱冠12歳でヴィオッティの協奏曲を演奏したほどの名ヴァイオリニストでした。名前は、ロンドンのテームズ川にかかるタワー・ブリッジを逆さにしたものでしょう。ブリヂストンのようなものです。とにかく、あまりに珍しかったため、ウィーンで正しく読める人は少なく、ベートーヴェンですらブリッシュダウワー(Brishdower)などと呼んでいました。上品で人当たりが良く、数ヵ国語を流暢に話し、服装のセンスも良いイギリス紳士でした。

 1803年4月16日、ベートーヴェンのピアノ・ソナタが弦楽クァルテット用に編曲され、そのミニコンサートがヴァイオリン奏者、シュパンツィク邸で開かれました。その場で、ベートーヴェンはブリッジタワーに会っています。その時、ベートーヴェンは新しいソナタを作曲し、彼と共演する約束をしました。これが《クロイツェルソナタ》になります。

 この年、ベートーヴェンが手がけていた仕事は山ほどありました。オラトリオ《かんらん山のキリスト》は4月初旬に初演されましたが、交響曲《英雄》は仕上げなくてはならない、《管と弦楽器のための7重奏》のピアノ・トリオ版は仕上っていない、頭の中では歌劇《フィデリオ》の構想が回っている等々、体が2つあって猫の手を借りたとしても足りないほどです。

 ベートーヴェンは、いつも3~4曲を同時進行で作曲していました。この新しいソナタも、オラトリオと同時期に構想は練られていました。ブリッジタワーとの共演を成功させれば、イギリスでの名声をさらに高めることができるかも知れません。この曲が当時のイギリス人に好かれるよう、「協奏曲風のコンチェルタンテ」という大曲になったのも想像できます。

 演奏会は5月22日に予定されていましたが、2日延びて24日に開かれました。この忙しい最中、1ヵ月ちょっとで1曲仕上げなくてはならないのです。友人でもあり弟子でもあったフェルディナンド・リースによると、ある朝、4時半に呼び出され、至急、第1楽章のヴァイオリンパートを写譜するように頼まれた、とあります。リースが行ってみると、ピアノ譜はまだスケッチの状態だったそうです。

 ベートーヴェンの原稿を読むのは並大抵ではできません。メンデルスゾーンに言わせると「ベートーヴェンの原稿は何キロ先からでも分かる」ほど、彼の筆跡には特徴がある、と言うより、乱筆なのです。そのため、原稿から演奏させるのは、ブリッジタワーに失礼ですし、危険が伴います。リースのお陰でどうにか第1楽章の写譜は間に合いましたが、第2楽章は間に合わず、殴り書きのような原稿で演奏しなくてはなりませんでした。この曲は演奏会の日にやっと間に合った、ということになります。

 演奏会には、シュパンツィク、リヒノフスキー公など、ウィーンの名だたる人々が来たと思いますし、ブリッジタワーの名声を聞いた人々も聴きに来たでしょう。のちに弦楽クァルテットを献呈するラズモフスキー伯爵もチケットを買っていました。これには、2人の責任と名誉がかかっています。それに、誇り高いベートーヴェンのことです、新曲の発表に傷はつけたくないはずです。ぶっつけ本番はありえないでしょう。第3楽章は、ロシアのアレクサンドル皇帝に捧げられた《ヴァイオリン・ソナタ第6番》用に仕上がっていました。ですから、彼らが出会った何日か後には、ブリッジタワーの手に届いていたと思われます。第1楽章は大体が仕上がっていたそうですから、少なくとも原稿を使って合わせはしていたのでしょう。この作品が要求する音楽に答えるだけの情熱をもって、2人は本番に臨んだと思います。

 第1楽章には、プレストに入って18小節目、フェルマータでピアノが分散和音のアドリブをする箇所があります。ブリッジタワーは、繰り返し後にもう一度その場所に来たとき、ピアノのアドリブのあとヴァイオリンでも分散和音を即興した、と回想しています。するとベートーヴェンは飛び上がって喜び、「もう一度やろう!」と言ったそうです。ベートーヴェンは、ブリッジタワーがアドリブを弾き終えるまで、ペダルで残響を残していてくれたそうです。演奏会であるにもかかわらず、沸いてくる興奮を抑えきれないベートーヴェンがここにいます。

 また、ベートーヴェンは第2楽章をとても貞淑に演奏したそうで、聴いている人たち全員が2回繰り返されるのを当然のように感じた、とあります。

 ぎりぎり間に合った作品でしたが演奏会は大成功で、新曲は評判となりました。2人とも、お互いの演奏と人柄を気に入りました。ところが、ブリッジタワーがウィーンを去る頃になると、ふとしたことで喧嘩別れとなってしまいます。ブリッジタワーの話では、女性が絡んでいたらしい。

 喧嘩さえしなければ、このソナタは「ブリッジタワー」の名で親しまれていたはずです。このような経過を辿って、Op.47は「クロイツェルソナタ」と呼ばれるようになったのですが、佐藤康則さんも曲目解説で書かれているように、この名作をクロイツェルは公の場で演奏していません。その理由は、この曲が当時に相応しくない難しさを持っていたことにもあると思います。



~練木繁夫さん出演公演~

~その他ベートーヴェンプログラムの公演~

練木繁夫さんは、2012年6月、10月、2013年1月に 「JT室内楽シリーズ ベートーヴェン・トリオ全集、徳永二男(Vn)、堤 剛(Vc)」に出演予定です。

春祭ジャーナルINDEXへ戻る

ページの先頭へ戻る