HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/01/20

ベートーヴェンという人間

音楽はもちろんのこと、その為人ひととなりも非常に個性的かつ魅力的だったベートーヴェン。本稿は、「ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」に出演されるピアニストの練木繁夫さんが、特別寄稿してくださった"ベートーヴェン小伝"である。

文・練木繁夫(ピアニスト)

 ベートーヴェン(1770~1827)がウィーンに向けて2度目の旅にたったのは1792年11月、その頃、フランス軍は北に向けて進軍していました。彼が生まれたボンは、ライン川に沿っています。フランス軍が計画通りライン川まで支配地域を広げると、ボンはフランス領となってしまいます。戦いに巻き込まれないためにも、これ以上、予定を延ばすわけには行きません。侵略を防ぐため西へ進む軍とコブレンツですれ違い、ベートーヴェンを乗せた馬車はウィーンへと急ぎます。オーストリア近くのパッサウ、リンツの街は、ハイドンもイギリスからの帰りに通りました。ベートーヴェンを乗せた馬車も同じ道を辿ったのでしょう、1000キロ近い道のりを10日で走っています。ちなみに、現在ですと特急で9時間くらいでしょうか。

 身長は165センチほど、当時では大きいほうです。筋肉質でしっかりした体格、動作は俊敏で友人達の歩く遅さに苛立ちを表わすベートーヴェンは、落ち着きのない性格の持ち主であった、と言われています。頭は大きく額が広く、目の色は灰色の混ざった黒です。美しく語り掛けるような眼は、優しく恵み深く、ある時はさまよい、ある時はいたずらっぽく、また時には恐ろしくもあった、と言われています。47歳までは近眼用の眼鏡をかけていましたが、次第に眼鏡を必要としなくなり、上目で人を凝視するようになりました。そのときは、こちらの身体が凍ってしまうほどだったそうです。

 肖像画でも見られるように、厚い黒髪は無造作に後ろへ掻き上げられ、黒い髪も46歳頃には銀髪になり、やがては白髪になりました。鼻はライオンのように四角、口はしっかりと大きく、時折見せる笑顔からは健康的に並んだ白い歯が見えたそうです。顎には一本の横線があり、それは歳と共に深くなりました。会話をする声は大きかったのですが、歌う声はしわがれていました。言葉には、ボン特有の訛りがあっただろうと思います。手の筋肉は厚く、指は短い、爪は歯で噛まれています。指が短く厚みのある手とは、いわゆる「四角い手」です。このような手を持つピアニストの音には深みがあります。

 普段は装いを気にせず、カール・チェルニー(1791〜1851)がベートーヴェンと初めて会ったとき、12歳のチェルニーには「ロビンソン・クルーソー」のように見えたそうです。友人のフェルディナンド・リース(1784〜1838)は、ベートーヴェンが髭を剃る時に目の下まで石鹸をつけているのを見ています。このように髭を剃る人は几帳面。ちなみに、ベートーヴェンの髭は濃かったそうです。

 18世紀後半、芸術の都は、もちろんウィーンです。この頃、鍵盤楽器の普及が進み、ハウスコンサートが増えています。オペラなどの編曲版が出回り、それを家庭で演奏することも多くなりました。そうなると当然、室内楽も注目されるようになり、弦楽四重奏曲だけのコンサートが、パリ、ウィーン、プラハなどで開催されるようになりました。

 耳のことが記述に載るのは1796年が最初です。この夏、あまりの暑さに耐えかねたベートーヴェンが裸になって体を冷やしすぎ、その結果「危険な病気」としていますが、器官と聴覚にその影響が及び、ここから彼の難聴が始まった、とあります。なんとなく「風が吹くと桶屋が儲かる」的な記録ですが、確実にいつ頃から始まったのかは、本人が明かさなかったのでしょう、定かではありません。始めは、発熱時に起こる不規則な耳鳴りだったそうです。

 1801年、友人のフランツ・ウェーゲラー(1769~1848)に宛てた手紙には、「誰にも知らせてはならない」としながら、この3年間で耳の具合が悪化していること、オーケストラを聴く時には近寄らなくてはならない、離れると高音が聞こえなくなる、また、小声の会話は耳に入るが言葉までは分からない、と記されています。

 「運命の喉もとをつかんで降参はしない」という、いかにも彼らしい言葉も書いています。そして、ベートーヴェンは尊敬していた祖父、名は同じくルードウィッヒ、の肖像画を送ってくれるよう頼みます。ベートーヴェンは、この肖像画を死ぬまで部屋に飾っていました。孤独と不安の中で、家族の絆が必要だったのでしょう。

 44歳でほとんど耳が聞こえなくなり、メトロノームの発明者、ヨハン・メルツェル考案の補聴器を使うようになります。ピアノのフレームに当てた棒を口にくわえ、振動を体で感じることまで試みています。

 ベートーヴェンは、毎日のようにコーヒーハウスに通い、人との会話を楽しみました。コーヒーハウスは、当時、海を渡ったロンドンでも流行していました。ベートーヴェンはコーヒー豆を60粒、正確に数えて煎じていました。このレシピで、私も試してみました。濃い!ですが、飲めます。

 彼が好んだ料理は、バターソースのかかったスズキ、またはタラ。鹿、イノシシ、野鳥の焼き物、これは健康に良いというベートーヴェンの持論です。パルメザンチーズをまぶしたパスタ、動物の骨を煮詰めたスープに堅いパンのクルトン、ブラットウースト(豚の血のソーセージ)とジャガイモ、レーゲンスブルクからのビールなどでした。レーゲンスブルクは南ドイツの、ビールで知られている街です。ベートーヴェンが好んだ食材は、ビール以外、すべてウィーン近郊で手に入れることができます。

 1821年、ベートーヴェンは黄疸おうだんにかかり、腹部の痛みと嘔吐に悩まされています。それからは、激しい腹痛、腹部の腫れ、吐血などが頻繁に起こるようになりました。1827年、3月上旬には錯乱状態に陥っています。そして、ついに3月24日、ベートーヴェンは昏睡状態に入り、2日後の26日午後5時45分、57歳の生涯を終えました。翌日行われた解剖結果には、肝硬変、通常の3倍までに脾臓が大きくなった脾腫ひしゅ、胆石による炎症である胆嚢炎たんのうえん、膵臓に炎症が起きた膵炎すいえんが記録されています。

 「ベートーヴェンが嵐と共にこの世を去った」という話は本当です。ウィーン気象局の記録では、午後3時頃から風が強まり、4時には稲妻や雷をともなった嵐になりました。外で凄まじい稲妻の閃光と烈しい雷音が鳴ると、ベートーヴェンは目を強く見開き、こぶしを作った右手を天に向けるように高々と伸ばしたそうです。何秒かして右手を静かに下ろすと目が半分に閉じられ、このとき息も心臓の鼓動も止まりました。

 ベートーヴェンの本棚には、フランス語とラテン語で書かれた聖書、ゲーテ、シラーの著書全巻、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』、シェイクスピア劇全巻などがあったそうです。これらは、ベートーヴェンに多くのインスピレーションを与えたことでしょう。ピアノの上に置かれた楽譜のなかでは、特にバッハの平均律に勉強した筆跡が多くあったそうです。

 フランツ・リストはこのような言葉を残しています。
「ベートーヴェンの音楽は、古代イスラエル人たちを砂漠から導いた煙と炎の柱である。煙は日中のさなかに人々を導き、炎は夜人々を導く、つまり、彼の音楽は日夜、我々を導き続けるのである。彼の影も光も我々が歩むべき道を示してくれる。彼の音楽すべてが永遠の戒律であり、絶対なる黙示録である」



~練木繁夫さん出演公演~

~その他ベートーヴェンプログラムの公演~


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