HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2019/02/19

イゴール・レヴィット── 旅する自由と人生の変奏曲
Igor Levit, before Life and after

文・青澤隆明(音楽評論家)


 その人は悲しみを連れてきた。そして、大きくひらかれていく自由を──。

 イゴール・レヴィットと話したのは、一昨年の秋のことだった。バッハ、ベートーヴェンとジェフスキ、3作の変奏曲のことを中心にいろいろと聞いたことが、彼の演奏と重ね合わさって、そのように強く思えてきた。

 それから3日後、東京文化会館でレヴィットの弾いた「イゾルデの愛の死」が、いまも鮮烈に心に刻まれている。十全に抑制された情感と詩性が圧巻だった。本篇ではバイエルン国立管弦楽団との共演で、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を演奏した。鋭敏な技巧をもちながら、十全のコントロールを貫き、落ち着いた風格を保っている。だからこそ、清潔な抑制と精密な表現が際立ち、とくに弱音での沈潜と繊細な歌いかけが光った。キリル・ペトレンコの指揮が精妙に、美しく寄り添って、ちょっとないくらいに全体が調和していた。

イゴール・レヴィット

イゴール・レヴィット
©Robbie Lawrence

 そうして、待ち焦がれていたレヴィットのリサイタルがこの春、格別のプログラムで実現する。バッハの"ゴルトベルク"、ベートーヴェンの「ディアベリ」、フレデリック・ジェフスキの「不屈の民」という3作の大変奏曲である。あわせて99の多種多様な変奏を、CD3枚組に纏めたのが2015年のことで、ベートーヴェンが1月末から2月、ジェフスキが3月、バッハが8月にベルリンで収録された。このチクルス、コンサートでは同年4月、ハイデルベルク春の音楽祭で披露され、レヴィットはこのとき初めて公けに "ゴルトベルク変奏曲"を演奏した。

 イゴール・レヴィットは1987年ノヴゴロド生まれで、8歳からドイツに移り住み、2009年にハノーファー音楽大学を卒業して、現在も同地に暮らしている。BBCの"ニュー・ジェネレーション・アーティスト"に選ばれ、2012年にソニー・クラシカルと契約すると、翌年にベートーヴェンの後期ソナタ5曲の2枚組、14年にバッハのパルティータ全6曲の2枚組を堂々とリリース。続けて2015年にバッハ、ベートーヴェン、ジェフスキの変奏曲による3枚組を発表したわけだが、ここまでの3集のアルバムは契約以前から念頭にあった曲目構成だという。「この3人は私にとっておそらく最重要な作曲家で、他にもまだ録音していない重要な作曲家が2、3人いるけれど、それはこれからの話だ」と先の折にも語っていた。そして、この3曲は「ピアノ音楽史上でもっとも重要な変奏曲で、ほんとうにエッセンシャルな作品である」と。

  "ゴルトベルク変奏曲"を彼は10年近くかけて学び、バッハ自身の作品はもちろん、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナ、フレスコバルディの諸作を研究して演奏に臨んだという。2段鍵盤チェンバロの特性をどう移し替えるかを充分に配慮したうえで、見事に統制しながらモダン・ピアノの良さを引き出し、レヴィットは精緻な表現で克明な彫琢を聴かせる。

 ベートーヴェンの『ディアベリの主題による変奏曲』は、師カール・ハインツ・ケマーリングに「きみのための曲だ」と薦められ、2010年にハノーファー音楽アカデミーの卒業試験にも弾き、レヴィットにとってはベートーヴェン後期への入り口ともなった作品である。「これはすべてについての音楽だ。求めるものすべてがあり、それがひとつに凝縮されている。混沌として、完璧で、崇高で、ラディカルで、クレイジー。すべてがこの曲で経験できる。好奇心に充ち、オープンな作品だから、ベーシックに言って、私自身がこうありたいと思うものなんだ」。

イゴール・レヴィット

イゴール・レヴィット
©Robbie Lawrence

 2012年に自らコンタクトをとって、いまでは親しい友と呼ぶのがフレデリック・ジェフスキ。「フレデリックは非常に強烈な個性の持ち主で、政治的な性格も強い。好奇心が強くて、タフで、とても繊細だ。友人としては、あたたかい人。私自身のなかにみるものの多くが、彼のなかにも見出される」。

 「『不屈の民』変奏曲は、真に人々に語りかける。信じられないほどヒューマンな音楽で、とても複雑で難しいけれど、ときには可笑しくときには哀しく、よいこともわるいこともすべてがあり、私たち自身と関係づけて体験できる。彼は真実のストーリーテラーだと思う」。

 これら3曲の録音は細部にいたるまで好きだが、いまはまったく違う演奏になっている、とレヴィットは2017年に語っていた。「もっともっと自由になった。成長したのだと思う。昨年、私はラディカルに変わった。たくさんのことが人生に起こって私は変わり、だから私の演奏もはっきりと変わった。内なる自由がどんどん大きくなっている。もっとラディカルに、もっとダイレクトに、もっとストレートに。いいとかわるいではなくて、別の場所に立っている感じがするんだ」。

 そこから少し間をおいて、2018年の春に録音されたのが『Igor Levit, Life (イゴール・レヴット:ライフ)』というアルバムで、亡くなった無二の親友に捧げられている。切実で、美しい音楽だ。バッハ、ブラームス、リスト、シューマン、ブゾーニの手が織りなされ、ワーグナー=リストの「イゾルデの愛の死」も含まれる。ここでも変奏曲とトランスクリプションは大きな主題だが、それはいみじくも人生が変奏の連なりのようなものであるからだ。ジェフスキの「A Mensch (立派な人間)」と、ビル・エヴァンスの「Peace Piece (ピース・ピース)」が各ディスクを美しく結んでいる。

 30代に入ったレヴィットの痛切な出発が、感情や音楽における自由と解放を含めて、謙虚に美しく結実した傑作である。そうして来たる春、改めて臨む3作の巨大な変奏曲の世界が、以後のレヴィットの進境をどのように映し出すのか、ますます楽しみに思えてくる。音楽は多様な感情を含みつつ、いつも生のただなかで響くものだから。


~イゴール・レヴィット(ピアノ)出演公演~

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