HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2016/01/14

アーティスト・インタビュー
~クリストフ・プレガルディエン(テノール)【後編】

表現力豊かな歌声と知性溢れる音楽解釈で人気を集めるテノール、クリストフ・プレガルディエンのロング・インタビュー。インタビュー前半に引き続き、室内楽版《冬の旅》についてたっぷり語っていただきました。

「ノルマン・フォルジェ氏による室内楽版は、原曲はそのままに楽器編成を変えたもの」とのことですが、シューベルトの原曲との大きな違いは曲順にあると思います。フォルジェ氏は、シューベルトの原曲の曲順ではなく、詩人ヴィルヘルム・ミュラーが最終的に残した詩の順に従って編曲していますが、これについてはどのようにお考えですか?

原曲よりもいっそう明快に主人公の心理を浮かび上がらせる曲順であると考えています。実は私は、場合によってはピアニストとの共演で原曲を歌う際にも、このミュラー版の曲順を採用しています。 そもそもシューベルトはまず、第一部の12の詩のみを先に知り、作曲しました。ミュラーはこの12の詩にさらに12の詩を加え、順番の変更を加えて新たに発表しています。第一部の作曲から数ヵ月後にこの全24の詩の存在を知ったシューベルトが、第二部を追加で作曲したわけです。シューベルト自身、もっと時間があれば  というのも、彼は第二部の作曲から数ヵ月後にこの世を去っています  、全体の曲順を見直していたかもしれません。私個人としては、フォルジェ氏が今回、ミュラーの曲順に従って編曲を行ったことには全面的に賛成です。歌っていても、この曲順の方がより説得力があると感じます。

具体的にどのような点において、「主人公の心理がより明快に」なっているとお考えでしょうか?

クリストフ・プレガルディエン

そのご質問にきちんと答えるには夥しい例を挙げる必要がありますが...、わかりやすい点のみを幾つか見てみましょう。
まず、フォルジェ&ミュラー版の曲順ですと、「菩提樹 Der Lindenbaum」(原曲:第5曲)の直後に「郵便馬車 Die Post」(原曲:第13曲)が続きます。これはとても自然な流れです。恋人の元を去った主人公は、「菩提樹」を見て過ぎ去った思い出に浸ります  菩提樹に"ここにお前の安らぎがある"とささやかれて。さらに「郵便馬車」が彼に、恋人と過ごした街を思い起こさせ、「溢れる涙 Wasserflut」(原曲:第6曲)に移行するのです。
もうひとつの顕著な例は、フォルジェ&ミュラー版では17番目に位置する「宿屋 Das Wirthaus」(原曲:第21曲)です。シューベルト版では、「宿屋」→「勇気Mut」(原曲:第22曲)→「三つの太陽 Die Nebensonnen」(原曲:第23曲)→「辻音楽師 Der Leiermann」(原曲:第24曲)という順で曲集が終結しますね。私はこれまでしばしば、この終わり方にある種の"歌いにくさ"を感じてきました。「宿屋」がもっと早くに位置づけられるべきではないか、と。「宿屋」は墓を指し、主人公は死を強く望みます。しかし私にとっては、《冬の旅》の帰結は死ではありません。終曲のタイトルでもある「辻音楽師」は、この曲集で現実の存在として現れる初めての人間です。多くの人々が「辻音楽師」を死のシンボルとみなしています。しかし私は、主人公が終曲で初めて外の世界にいる人間と出会い  しかも、「辻音楽師」はアウトサイダーであるという意味で彼に似た境遇の人間です  、彼を同胞として受け入れる、つまり主人公の人生は続いていく、と解釈しています。

ミュラー版の曲順を採用することによって、曲集全体の構築の仕方や解釈が変わると言うわけですね。

ええ、その通りです。フォルジェ&ミュラー版の曲順は、「宿屋」(原曲:第21曲)→「鬼火Irrlicht」(原曲:第9曲)→「休息 Rast」(原曲:第10曲)。そうして主人公は「休息」の中で「三つの太陽」(原曲:第23曲)を見→「春の夢 Frühlingstraum」(原曲:第11曲)を見ます。その後に「孤独 Einsamkeit」(原曲:第12曲)を経て→「勇気」が現れると言う心理の描き方は、私にとってより自然で理解しやすいものです。

そのような流れの先に終曲「辻音楽師」がある、つまりプレガルディエンさんにとって《冬の旅》は希望をはらんでいる曲集ということですね。

《冬の旅》で語られる全ての出来事は、三日ほどの間に起こっています。ある人が、恋人に裏切られ独りになる。当然、その人の心の中では多くの感情が湧き出でます。悲しみ、死への憧れ、怒り、憎しみ、皮肉、冷笑的な態度...もちろんそれらは"痛み"です。とりわけ、愛する人を失った際に初期の段階で襲われる痛みはことに激しいものです。時が徐々にそれを癒していきます。ですから、初めの三日間において、混沌とした種々の感情に苦しめられるのは当然のことです。これをシューベルトが《冬の旅》において音楽化しているのだと思います。若き主人公が、小川にしか語りかけることが出来ず、悲劇に向かって進んでいく《美しき水車小屋の娘》。悲劇に端を発しながらも、人間との出会いによって生への希望を残す《冬の旅》。私にとって、シューベルトの二つの歌曲集の違いはこの点において決定的なのです。



~クリストフ・プレガルディエン(テノール)出演公演~

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