HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2014/01/08

ワーグナー vs R.シュトラウス

文・飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)

 昨年はともに生誕200年を迎えたワーグナーとヴェルディを比較したが、今年は「東京・春・音楽祭」の主役ともいえる作曲家ワーグナーと、各公演に登場する主な作曲家たちを対決させてみたい。第1回はR.シュトラウス。

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 ワーグナーとR.シュトラウス、この二人の関係はライバルというよりは、時を隔てた間接的な師弟のように見える。R.シュトラウスの父はワーグナーを毛嫌いしていたが、息子は10代から早くもワーグナーに魅了される。R.シュトラウスは回想録にこう書いている。

「私は父の言いつけにそむいて《トリスタンとイゾルデ》の楽譜を勉強し、この魔法のような力を持った作品に夢中になりました。後には『ニーベルングの指環』にものめりこんでしまいました。今でもよく覚えていますが、17歳のとき、まるで神がかりにでもなったかのように《トリスタン》の楽譜をむさぼり読んだものです」

 R.シュトラウスは20代半ばよりバイロイトで練習指揮者として働き、ワーグナー未亡人であるコージマ・ワーグナーの知遇を得ている。彼はコージマと書簡を往復しながら、ワーグナーの主要オペラを指揮し、名声を高めてゆく。やがて彼自身がオペラを作曲し、ワーグナーに続くドイツ・オペラの伝統を体現する一員となった。

 偶然だが、ワーグナーとR.シュトラウスはともにリヒャルトの名を持つ。まだR.・シュトラウスが将来を嘱望される20歳の若者だったころ、当時の名指揮者ハンス・フォン・ビューローは、彼を「第3のリヒャルト」と呼んだ。

 なぜ3番目なのかといえば、それはワーグナーの後継者たる「第2のリヒャルト」はついにあらわれなかったから。「第3のリヒャルト」とは、ほめているんだか、けなしているんだかわからないような呼び名だが、ビューローはR.シュトラウスが《サロメ》や《エレクトラ》を書いてオペラ作曲家として名をなす前に亡くなってしまった。

 今のわたしたちには、R.シュトラウスを「第2のリヒャルト」と呼ぶことすらためらわれる。ともに唯一無二の音楽を書いたドイツの「二大リヒャルト」だ。



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