HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2014/03/04

ようこそハルサイ〜クラシック音楽入門~
なぜバッハは「音楽の父」なのか

文・小味渕彦之(音楽学、音楽評論)

 ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)の音楽に、どんなイメージを持たれていますか。「地味」「退屈」「難しい」というように、ネガティブな印象を抱いている方も少なからずおられることでしょう。

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 バッハが亡くなった1750年以降、彼の音楽は急速に人々の中から忘れ去られました。これは何もバッハの作品に限りません。19世紀前半まで、公の場所で演奏される音楽は、ほとんどが同時代を生きている作曲家の作品でした。ただし、一般の聴き手にとっては遠い存在であったバッハの音楽も、専門家の中では対位法とフーガの大家として高い評価を得ていたのです。音楽家であった息子たちや何人かの弟子の努力の甲斐もありました。それでも古くて難解な音楽は、研究対象とはなったものの、音楽を享受する喜びとはなかなか結びつきません。やはり「地味」で「退屈」で「難しい」音楽だったのです。

 時代の流れの変化が「バッハ復興」を促します。1829年3月11日に行なわれたフェリックス・メンデルスゾーンによる「《マタイ受難曲》speaker.gif[試聴]の蘇演」を皮切りに、急速にバッハの作品が音楽シーンに登場することとなります。1850年が没後100年の記念年に当たったことも大きかったようです。実は、メンデルスゾーンはバッハと無縁ではありませんでした。一族にバッハの孫弟子がいたり、師がバッハ直系の弟子筋であったことから、書き写しによって伝えられていたバッハの作品に幼い頃から触れていたのです。

 対位法とフーガといった技法を駆使したバッハの作品は、それ以降の音楽とは音の組み立て方という点で、大きな断絶がありました。音が連なった線を編み物のように作り上げる方法が、18世紀後半には、和音の連結の上でメロディが奏でられる音楽へと急速な変化を遂げたのです。「バッハではなくメールだ」つまり「小川(Bach)でなく海だ」と言ったのはベートーヴェンでした。それでもバッハが究めた音楽は、あらゆる作曲家にとって大切な源泉となりました。やはりバッハは「音楽の父」なのです。


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