HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/02/02

ようこそハルサイ〜クラシック音楽入門~
イーゴリ・ストラヴィンスキー ~華麗なるバレエ音楽

文・後藤菜穂子(音楽ライター)

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イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)

 イーゴリ・ストラヴィンスキーは、近代ロシアから登場した初のコスモポリタンな作曲家といえましょう。1882年にロシアに生まれ、サンクト・ペテルブルクで作曲をリムスキー=コルサコフに学んだのち、天才的な興行師ディアギレフにその才能を見出され、彼の率いる「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」のためにバレエ音楽を作曲しました。そうしてパリでストラヴィンスキーの初期の三大バレエ、《火の鳥》(1910年)、《ペトルーシュカ》(1911年)、《春の祭典》(1913年)が相次いで初演され、大きな話題を呼んだのです。

 これらの作品で一躍脚光を浴びたストラヴィンスキーでしたが、その後の人生には、20世紀の二つの大戦が大きな影響を与えました。第一次世界大戦が勃発すると、彼はヨーロッパにとどまることを決意し、その後さらにロシア革命も起きたことから、なんと50年以上も祖国の地を踏むことがありませんでした。フランス時代にはドビュッシー、ラヴェル、サティなど当時のフランスの作曲家たちをはじめ、ピカソ、コクトー、ポール・ヴァレリーらの多くの芸術家や文化人と交友を深めました。彼とファッション・デザイナーのココ・シャネルとの関係については最近映画にもなり、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

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   火の鳥の衣装デザイン

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ペトルーシュカの舞台デザイン

 そして第二次世界大戦の前夜、ストラヴィンスキーは今度はアメリカに新天地を求め、1940年以降はハリウッドに居を構えます。1945年にはジャズ・クラリネットのための《エボニー・コンチェルト》を作曲するなど、彼が新しい土地の文化に適応するすぐれた能力と旺盛な好奇心を持っていたことは特筆すべきでしょう。

 ストラヴィンスキーは作曲のスタイルにおいても立ち止まることなく、一作ごとに違うスタイルを追求しました。たとえば《火の鳥》(speaker.gif[試聴]) と《春の祭典》(speaker.gif[試聴]) をくらべても、わずか3年しか離れていないとは思えないぐらい作風が異なるのがわかるでしょう。また、ロシアの民話に基づく風刺のきいた《兵士の物語》(1918年) (speaker.gif[試聴]) のすぐあとには、がらりと作風の異なる新古典主義様式の《プルチネッラ》(1920年)(speaker.gif[試聴]) を作曲しています。それでも、そうした中ですべての作品に共通しているのは、ストラヴィンスキーの色鮮やかな管弦楽法なのです。

 「東京・春・音楽祭2012」では、《火の鳥》(1910年のバレエ全曲版)と《ペトルーシュカ》(1947年の管弦楽版)を目下絶好調なインバルと都響のコンビで取り上げます。今から100年前のパリで誕生したストラヴィンスキーの華麗なサウンドワールドは、今なお色褪せることなく、生き生きと私達に語りかけてくれるのです。


~関連公演~
東京春祭のStravinsky


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