HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2011/03/23

オーケストラピットから見たバイロイト音楽祭(第3回)

第3回 続・バイロイトで出会った巨匠たち

眞峯紀一郎(ヴァイオリニスト)

 バイロイト祝祭管弦楽団に長く在籍された、ヴァイオリニストの眞峯紀一郎さんによる講演「オーケストラピットから見たバイロイト音楽祭」。最終回は、バレンボイム、シノーポリ、レヴァイン、そしてティーレマンらが活躍する1980年代半ばから現代までをお話しいただきます。

感覚的なバレンボイム、 突然訪れたシノーポリとの別れ

 今回は、まずダニエル・バレンボイムについてお話ししましょう。彼は、天才的なひらめきを持った、感覚的な指揮者だと思います。聞いている人は、彼のドラマティックな演奏に退屈しないでしょうが、演奏者からすると、感情にムラが出てテンポが急に速くなり、アンサンブルが乱れてしまうことがありました。ですから《トリスタンとイゾルデ》のようなオペラは天下一品ですが、彼の指揮する《パルジファル》(レヴァインからバレンボイムに交代した1987年の公演)には、個人的に納得できませんでした。バレンボイムは、楽譜にないテンポの動きを指示するのですが、私は常々《パルジファル》という作品には“時を刻むような落ち着き”と“人間が永遠に歩み続けるような安定感”が必要だと考えています。もちろん、バレンボイムのような《パルジファル》を好む方もいらっしゃるとは思います。

 1988年からバレンボイムは《リング》も指揮しましたが、指揮の仕方は根本的に同じでした。《ジークフリート》や《神々の黄昏》の最終盤は速いテンポが続き、ファーストヴァイオリンはとてもむずかしい演奏をしなければなりません。その場面でさえバレンボイムは、テンポをさらに速めて突っ走るので、アンサンブルは滅茶滅茶になりました。最初にも述べましたが、ワーグナーの音楽は正しいテンポをとれば、きちんと演奏できるように書かれてあります。これはあくまでも個人的な見解なのですが、バレンボイム以外にも、アシュケナージやエッシェンバッハといった“ピアニスト出身の指揮者”にはある特徴があって「自分の二本の腕、十本の指でピアノを演奏するように指揮も行なう」――そんなふうに感じることがありました。

 1985年、ジュゼッペ・シノーポリがバイロイトに登場して《タンホイザー》を振りました。それから10年経った95年、それまでレヴァインが長年指揮してきた《パルジファル》を、今度はシノーポリが振ることになりました。レヴァインの《パルジファル》はとても評判が良かったので、シノーポリには「自分自身の音楽を作らなければならない」という強い決意があったと思います。そこで彼は、レヴァインのように音楽を大きく流すのではなく、個々のモティーフを強調して、短いフレーズを重ねるように音楽を組み立てていきました。そしてその試みは成功したと思います。音楽全体が、重厚なレヴァインの響きから、鋭く透明感のあるシノーポリの響きに変わったのです。翌96年には大変珍しいことが起きました。ある公演で、前奏曲が始まり、ヴァイオリンが第2音まで弾いたところで、客席が突然ザワザワしました。するとシノーポリは演奏を止めて、もう一度最初からやり直したのです! こんなことは、後にも先にも経験したことがありません。

 2000年、シノーポリは《リング》を指揮しました。私はたまたま《ヴァルキューレ》の日が休みだったので、日本から公演を聞きに来られた方を、公演後に祝祭劇場まで迎えに行くことになっていました。通常《ヴァルキューレ》の終演は22時頃なので、その時刻に私は祝祭劇場に到着したのですが、待てど暮らせど上演が終わらない……。漏れてくる音に耳を傾けると、まだ第3幕の途中あたりで、結局、その日は40分くらい待つことになりました。そして、次の《ヴァルキューレ》のときにも、他の方を迎えに行くことになっていたので、今度は22時20分くらいに到着するようにしました。すると、もう公演が終わっていたのです! 同じ作品で約40分も演奏時間が違っていたことになります。そんな出来事もありましたが、我々は翌年のシノーポリの公演を楽しみにしていました。ところが、シノーポリは2001年4月20日、私が長年勤めたベルリン・ドイツ・オペラで《アイーダ》を指揮している最中に倒れて、そのまま息を引き取ってしまいました。とても残念でなりません。

ティーレマン、大植英次 そして次世代の指揮者たち

 2000年の《マイスタージンガー》には、クリスティアン・ティーレマンが登場しました。彼は短期間で歌手、オーケストラ、コーラスの心をつかみ、素晴らしい公演になりました。彼の練習はとても充実しており、与える指示はどれも的確で納得できるものでした。ですから、緊張した雰囲気のなかにも参加者全員のやる気がみなぎっていました。ティーレマンは、スター街道を歩んできた指揮者ではなく、ドイツの歌劇場で叩き上げられた、今日では珍しいタイプの指揮者です。その経験がバイロイトでも十分に活かされていると、彼自身も語っています。彼は、ワーグナーのテキストを熟知し、歌手のコンディションなどへの気配りもできます。ティーレマンのように広い視野を持ち、公演全体を掌握できる指揮者の登場は、ホルスト・シュタイン以来かもしれません。私は演奏者生活の晩年に、ティーレマンのような指揮者のもとで演奏できたことを大変幸せに思います。

 少し余談になりますが、ヘルベルト・フォン・カラヤンについても触れたいと思います。私はベルリンを始め、日本演奏旅行やザルツブルク音楽祭など、多くのコンサートをカラヤンの指揮で弾きましたが、ワーグナーのオペラに関しては、1973年ザルツブルク復活祭音楽祭の《マイスタージンガー》が初めてでした。オペラの指揮は、ただ楽譜を見て棒を振るだけでなく、もっと大きな観点から作品を俯瞰する必要があります。カラヤンはそれを見事にこなせる人でした。私は個人的に、カラヤンは“オペラ指揮者”だったと考えています。カラヤンは音楽から演出に至る全てを自分でコントロールする人で(そんなところが原因となって、バイロイトではヴィーラントと仲違いしたのですが……)、スコアもテキストも完璧に暗譜して、歌手の所作などにも全部指示を出していました。

 2004年、ピエール・ブーレーズが《パルジファル》を振りにバイロイトに戻って来ました。彼も歳をとり丸くなっていましたし、《パルジファル》は過去にもバイロイトで指揮していたので、《リング》のときのような混乱は起こりませんでしたが、そのテンポの速さには驚かされました。通し練習のときなどは、第一幕が1時間半を切るようなスピードでした。ちなみに、エッシェンバッハが2000年に《パルジファル》を指揮した際には、第一幕だけで2時間10分でした。ただ、ブーレーズの《パルジファル》には、慌てたような印象は皆無で、その点はさすがだと感じました。しかし個人的には、彼のテンポには馴染めませんでした。ゆっくり弾きたいところでも、さっさと駆けて行ってしまうのです。ブーレーズという指揮者は、音楽に没入するタイプではなく、音楽を外から冷静に見つめている、そんな印象を受けました。つまり、ブーレーズが表情を変えたり、汗をかいたりする姿は、ほとんど見たことがありません。

 2005年には、東洋人初の指揮者として大植英次が登場しました。我々の期待も非常に大きかったのですが、結果的に、彼がわずか一年でバイロイトを去った指揮者の一人となったことを、私は大変残念に思います。彼を登用したのは、ワーグナー夫妻だったと聞いています。つまり、彼には十分な魅力と資質があったわけで、私自身も全く同感でした。

 しかし、どうして初年度に《トリスタンとイゾルデ》を選んでしまったのでしょうか? 仮に《トリスタンとイゾルデ》をやりたかったとしても、他の作品で経験を積んでからでも良かったのではないでしょうか。オペラ指揮者の役割は広範囲に及びます。多くの人のうえに立ち、出演者全員をまとめていかなければなりません。さらに、バイロイトには“ワーグナーを演奏する”というたった一つの目的のために、多くの人が集まって来ます。ですから初登場の指揮者には、いっそう周到な準備が要求されます。その点、彼にオペラ指揮者としての経験と、バイロイトに対する十二分な認識があったなら、もっと違った結果になっていたことでしょう。大植英次がしっかり勉強していることはよく分かりましたし、オーケストラの鳴らし方にも見るべきところはありました。だからせめてもう一年、チャンスを与えて欲しかったです。そこがとても残念なところです。

 お話の最後に、これから活躍するであろう指揮者を何人か紹介したいと思います。2007年に《マイスタージンガー》を指揮したセバスティアン・ヴァイグレは、大きな期待が寄せられているドイツ人指揮者です。2008年に《パルジファル》を振ったダニエレ・ガッティは、今後もバイロイトに残っていく指揮者になるでしょう。2010年に《ローエングリン》を振り、「東京・春・音楽祭」にも登場予定のアンドリス・ネルソンスは、若くてとても情熱的な指揮者で、音楽への取り組み方も非常に真摯なので、これから多いに活躍してくれると思います。さらに2013年から始まる新制作の《リング》には、キリル・ペトレンコという指揮者が登場します。きびきびした棒さばきをする、大変優れた指揮者です。

 今日、世界中でたくさんの音楽祭が開催されていますが、立地条件の良さと歴史の長さという点から、バイロイト音楽祭に匹敵するものはありません。ですから今後も、実力のある指揮者と一流ソリストによる、最高の公演が続けられることを心から願っています。



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