HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2019/02/05

連載《さまよえるオランダ人》講座
~《さまよえるオランダ人》をもっと楽しむために vol.3

2019年の「東京春祭ワーグナー・シリーズ」は、《さまよえるオランダ人》を上演します。そこで、音楽ジャーナリストの宮嶋極氏に《さまよえるオランダ人》をより深く、より分かりやすく解説していただきます。連載第3回(最終回)では、《さまよえるオランダ人》の第2・第3幕を見ていきます。

文・宮嶋 極(音楽ジャーナリスト)


 リヒャルト・ワーグナーの創作活動の中で最初のターニングポイントとなった《さまよえるオランダ人》の聴きどころ、観どころを分かりやすく紹介していく連載の最終回は、第2幕と第3幕について、音楽と物語を同時並行的に追いながら、掘り下げていきます。なお、台本の日本語訳については、日本ワーグナー協会監修 三宅幸夫/池上純一編訳『ワーグナー さまよえるオランダ人』(五柳書院)を、譜面はドーバー社刊のフル・スコアを参照しました。

【第2幕】

前奏部
 第1幕の終わりで記したカットを施さない場合は、オーケストラによって第2幕冒頭に72小節(アウフタクトを除く)の前奏が演奏される。調性は明るく軽やかな雰囲気の変ロ長調。前奏は糸を紡ぐ女性たちの楽しげな合唱に繋げるために、全体の雰囲気を一変させる役割を担っている。
第1場(第4番)
 イタリア・オペラのように全作通しての番号が振られており、スコアには④「リート、シェーナ、バラードと合唱」と表記されている。ダーラントの家で娘たちが、マリー(ダーラントの娘ゼンタの乳母)を中心に楽しそうに歌いながら糸を紡いでいる。この「糸紡ぎの合唱」(譜例⑩)は、前幕の「水夫の合唱」(譜例⑤)と鮮やかなコントラストをなしている。

譜例⑩


譜例⑤


 娘たちの楽しげな輪の中にゼンタは入っておらず、ひとり安楽いすに腰掛けて、壁に掛けられたさまよえるオランダ人の肖像画を見つめている。彼女はまるで何かに取りつかれたような様子で、会ったこともないオランダ人の境遇に本気で同情している。興味津々の娘たちに促されて、ゼンタはオランダ人の呪われた運命を娘たちに歌って聴かせる。「呪われたオランダ人の動機」(譜例②)の前奏に続いて「ヨホホエー!」という独特の呼びかけを導入に始まる歌が、このオペラ全体の縮図のような内容となっている「ゼンタのバラード」である。

譜例②


全体は3節からなり、前半は起伏の大きい音形(譜例⑪)と「救済の動機」(譜例④)が交互に現われて、オランダ人の運命を切々と歌い上げていく。

譜例⑪


譜例④


第2節の後半から娘たちの合唱も加わり、ゼンタの話に同調していく。最後に興奮が頂点に達したゼンタは「私こそ、あなた(オランダ人)を誠によって(呪われた運命から)救う女です。神の御使いがあなたに会わせてくださいますように」と叫ぶ。「何ですってゼンタ!」とマリーと娘たちは驚愕。そこにゼンタの叫び声を聞いた恋人のエリックが飛び込んでくる。
 「ゼンタ、俺はどうなってもいいのか」と詰め寄るエリック。娘たちは「エリック、助けて、ゼンタがおかしいわ」、マリーも「身も凍る思い」とゼンタの異常な姿に恐れすら感じ始めている。しかし、ゼンタには彼らの言葉はまったく耳に入らぬ様子で身じろぎもしない。父ダーラントが帰ったとの知らせに、ゼンタはようやく我を取り戻すのであった。娘たちはマリーに促され、船を出迎えるために部屋を出ていく。

第2場(第5番)
 「二重唱」。マリーに続いてゼンタも出ていこうとするが、エリックに引き止められる。自分への思いを確かめたいエリックに対してゼンタはつれなく接し、父を出迎えるため行かせて欲しいと言い出す。そんな姿にエリックは意を決したように、自分が見た夢の話をする。
それは、エリックが知るよしもない第1幕のダーラントとオランダ人の出会い、これからゼンタとオランダ人の間で起こることを言い当てる内容となっている。エリックはゼンタへの警告のつもりで話したのだが、彼女は自分の願いが叶う"予言"と受け止めて、逆にオランダ人への思いをますます募らせてしまう。
 幻想的なホルンの導入から始まるこの「エリックの夢の歌」(定まった呼称ではない)(譜例⑫)は、時制を超越して、未来または過去の出来事や事象の描写をする、後のワーグナー作品でしばしば使われる手法の先駆的な試みと位置付けることができる。

譜例⑫


情緒的な旋律の多いエリックの歌唱の中で、ここだけは朗誦風に書かれているのも興味深い。これが次作の《タンホイザー》の「ローマ語り」や《ローエングリン》の「名乗りの歌」、《ニーベルングの指環》に登場する智の神エルダの言葉などに発展していくのである。エリックの歌の節目ごとにオーケストラが「呪われたオランダ人の動機」を演奏。これも後のライトモティーフ(示導動機)の活用法のひとつへと発展していく。
 エリックは「恐ろしい。あれは正夢だった」と驚き、絶望して部屋を出て行く。ひとり残されたゼンタはオランダ人の肖像画を見つめながら、バラードの一節を口ずさむ。

第3場(第6番)
 「フィナーレ:アリア、二重唱と三重唱」。突然、扉が開くと、そこにはダーラントに伴われたオランダ人の姿があった。絵と本人を見比べて「アッ!」と叫び思わず絶句するゼンタ。2人はしばし、無言のまま見詰め合っている。この間の緊張感は、他のパートが総休止する中、ティンパニのソロ(譜例⑬)で表現される。こうしたティンパニの活用法は《ニーベルングの指環》の「運命の動機」や「死の動機」のような形へと進化していくものといえよう。ここもまさにオランダ人とゼンタの運命的な出会い、そして"死"へと繋がっていくシーンである。

譜例⑬


 息詰まるような緊張感を壊すのはダーラント。娘がオランダ人にクギ付けになって、父である自分を出迎えもしないことをユーモラスな調子でとがめる。「お父さま、お連れの方はどなた?」と尋ねるゼンタに、ダーラントはオランダ人について説明するアリア(譜例⑭)を歌う。伝統的な様式のアリアではあるが、バスの声の魅力が存分に発揮される名曲であり、コンサートなどで単独で歌われることも多い。アリア中盤からは、オランダ人とゼンタの仲を取り持つような内容となり、最後は「あとはふたりで。私は退散いたしましょう」とダーラントは部屋を出て行く。

譜例⑭


 部屋の中はオランダ人とゼンタのふたりだけ。オランダ人がおもむろに口を開く。「この娘の姿は、はるか遠く過ぎ去りし時の彼方から語りかけてくるようだ」。ゼンタもこれに呼応するかのように「不思議な夢の底に沈んだのか、それともこれは幻なのか」と呟き、二重唱(譜例⑮)が始まる。

譜例⑮


しかし、ここではふたりが実際に会話をしているのではなく、それぞれの心の中の思いが歌詞で表わされている。現実世界では何の動きもなく、いわばストップモーションの中でそれぞれの心中が表現されているのである。これも後のワーグナーが得意とした作劇手法のひとつ。《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第3幕前半の締めくくりに歌われるザックス、ヴァルター、エーファ、ダーヴィト、マグダレーネによる五重唱や、《神々の黄昏》第2幕終盤、ブリュンヒルデとハーゲン、グンターの3人が、心中に抱くジークフリートへの復讐心や敵愾心を時間が止まった状態で歌い合う場面などが、その好例といえよう。思いの表現が一段落し、再び現実世界に戻った2人はようやく会話を交わし、ゼンタは「私が真心を捧げる、その方に贈るのはただひとつ。死に至るまでの誠」と誓いを立ててしまう。オランダ人も「凶運の星よ色あせよ、希望の光よ、新たに輝け!」と喜び、2人は愛を誓い合いながら二重唱を終える。テンポが次第に速くなっていくところに2人の心の高揚ぶりが表わされている。
 再びダーラントが部屋に入ってきて、婚約成立を喜ぶ短い三重唱で第2幕は閉じる。

【第3幕】

間奏部(アントラクト)
 幕間を確保する3幕形式では47小節の短い間奏が付く。全幕を通して上演する場合は第2幕最後の8小節と第3幕間奏部分の冒頭4小節をカットして、連結することが多い。(幕が開くと)舞台は湾内の岸壁のよく晴れた夜。ダーラントのノルウェー船とオランダ船が隣り合うように停泊している。

第1場(第7番)
 「合唱とアンサンブル」。ノルウェー船の甲板上では、船員の男たちが厳しい航海を乗り切った解放感から宴会を開き騒いでいる。船員たちは「水夫の合唱」(譜例⑤)を歌い、1拍ごとに足を踏み鳴らしながら踊る。

譜例⑤


そこへ娘たちが、食べ物や飲み物を携えてやって来る。娘たちは、灯りも点さず静まり返るオランダ船に声を掛けるが、まったく応答がない。男たちも加わって「おーい、こっちに来なよ!」と何度も呼び掛けると、静かな海がオランダ船の周囲だけ荒れ始め、帆綱を吹き抜ける強風が音を立てる。船上に炎が点るとともに、オランダ船の船員たちの不気味な姿が見える。
 オランダ船の船員たちが、「呪われたオランダ人の動機」の旋律に乗って暗く、しかし、力強く歌い出す。ノルウェー船の側も負けずに歌い返すが、次第に圧倒され、オランダ船からは嘲笑の声が響きわたる。気味が悪くなったノルウェー船の船員や娘たちが姿を消すと、海は元の静寂を取り戻す。

第2場(第8番)
 「フィナーレ」。ゼンタが慌ててオランダ船に向かおうとする。それをエリックが追いかけ、かつて2人が仲良かった時のことを振り返りながら、懸命に引き止めようとする。しかし、ゼンタは「やめて! あなたと会うのも、あなたのことを想うのもこれが最後。(エリックと)永遠の愛など誓っていない」と激しく拒否する。
 そんな2人の言い争いを聞いていたオランダ人は絶望し、「もうおしまいだ。救いは永遠に失われた。さようならゼンタ、あなたを破滅させるわけにはいかぬ」と別れを告げ、船員たちに出航を命じる。必死に追いすがるゼンタ、それを阻止しようとするエリックの3人による緊迫の三重唱が繰り広げられる。最後にオランダ人は「世界中の海の船乗りたちが怖れる"さまよえるオランダ人"とは俺のことだぁー!」と絶叫し、すばやく身を翻して船に飛び乗る。
 ゼンタは、事態を聞き付けたダーラントやマリー、娘たち、そしてエリックらによって押し止められるが、渾身の力でそれを振りほどき「さあ、ご覧なさい! 死に至るまであなたに誠を捧げます」と叫び、オランダ船を追うように海に飛び込む。それと同時にオランダ船は船員もろとも海に沈んでいく。彼らの果てしのないさまよいの航海にようやく終止符が打たれたのである。船の沈んだ後の空には朝日のような赤みが差し、ゼンタの誠の愛によって浄化されたオランダ人が、ゼンタと抱き合って昇天していく姿が浮かび上る。ゼンタは片手を上げて、眼差しを上に向けて天を指し示す。音楽は「救済の動機」(譜例⑯)で締めくくられる。

譜例⑯


 ただし、本連載の第1回で述べたように、清らかな救済で幕を閉じるスタイルは初演後に改訂されたものであり、最近では初演時のオリジナル版で上演されるケースも多い。
「呪い」と「救済」の相反する概念の対立を際立たせるという観点から言えば、改訂されたバージョンの方がより、観客・聴衆に訴える力が強いのではないかと筆者は考える。
 ここまで3回にわたって「さまよえるオランダ人」について、掘り下げてきましたが、私の拙稿が、「東京春祭ワーグナー・シリーズ」を鑑賞する上で少しでもお役に立てたら幸いです。

連載《さまよえるオランダ人》講座 vol.1 | vol.2 | vol.3 |


~関連公演~


~関連コラム~

春祭ジャーナルINDEXへ戻る

ページの先頭へ戻る