HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2017/12/12

ようこそハルサイ~クラシック音楽入門~
芸術家の創作意欲をかき立てる「スターバト・マーテル」とは?

文・吉田光司(音楽評論家)


 「スターバト・マーテル」とは、キリスト教、カトリックの用語で、ラテン語である。その意味は「スターバト・マーテル」の第一連の歌詞を読めばだいたい分かるだろう。

Pietro Perugino

ピエトロ・ペルジーノ
《The Crucifixion with the Virgin, Saint John,
 Saint Jerome, and Saint Mary Magdalene》
1482/1485年、ワシントン、ナショナル・ギャラリー蔵


  Stabat Mater dolorosa 悲しみの母は立っていた
  iuxta crucem lacrimosa, 十字架の傍で涙を流して
  dum pendebat Filius. 子が架けられていた時


 そう、「スターバト・マーテル」は、十字架に磔にされたイエスの傍らで涙を流して悲しみながら立っている聖母マリアの姿を描いているのだ。

 「スターバト・マーテル」の源はヨハネによる福音書の第19章25-27節で、ここにはイエスの母を含む女性たちが十字架の傍に立っていたことが記されている(他の福音書では女性たちは遠くから処刑の様子を見守っていたとある)。ただしここで物語られているのは、十字架に架けられたイエスが弟子(ヨハネ)に母の世話を託すという話で、母マリアが涙を流して悲しむような様子は描かれていない。だが磔刑で死に行くイエスを目の当たりにした聖母の姿は、多くの芸術家の創作意欲をかき立てるに十分なものだった。絵画や彫刻でもスターバト・マーテルを題材にした作品は数多く作られている。

 音楽の「スターバト・マーテル」は、まず13世紀にセクエンツィア(続唱)として世に現れる。セクエンツィアとは大雑把に言って中世に作られたラテン語聖歌のことで、9世紀から16世紀まで夥しい数(一説には5千曲とも)が作られた。セクエンツィアの「スターバト・マーテル」は一般的にヤコポーネ・ダ・トーディ(1230年代-1306)というフランシスコ会修道士によって作られたとされるが、異説もあって定かではない。ともかく、このセクエンツィアの「スターバト・マーテル」は詩の素晴らしさもあって絶大な人気を博した。

 この詩を基にして、ルネサンス期から現代まで、規模も形式も作風も様々な多数の「スターバト・マーテル」が作られた。代表的な作品の作曲家を列挙するだけでもかなりの長いリストになってしまうだろう。

 なぜ「スターバト・マーテル」はそれほど人気が高いのか。歌詞を読めば分かるように、「スターバト・マーテル」では、イエスの犠牲の痛みと我が子が目前で処刑される母の悲しみが見事に相乗している。この相乗が、親しい人の死の悲しみを宗教的に昇華する手助けになっているのだろう。「スターバト・マーテル」が長年愛され続けているのは、宗教と家族愛の融合にあるのではないだろうか。

 その最も顕著な例がアントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)の「スターバト・マーテル」 [試聴]に見て取れる。1873年に結婚したドヴォルザークは、翌年から一年おきに長男オタカル、長女ヨセファ、二女ルジェナと子を授かった。しかしヨセファは生まれた二日後に亡くなってしまい、それが「スターバト・マーテル」制作のきっかけとなった。その2年後の1877年8月、二女ルジェナが病で亡くなり、さらに僅か26日後に今度は3歳の長男オタカルが不幸な事故で亡くなってしまう。ドヴォルザークは2年強で3人の子を失ってしまったのだ。深い悲しみに沈みながら彼は「スターバト・マーテル」に取り組んだ。子を失った親の思いが込められた「スターバト・マーテル」は、1880年に初演されるや高い評価と人気を得て、ドヴォルザークの西欧進出の足がかりになった。

 一方、「スターバト・マーテル」が自らの死と繋がってしまったのがジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)である。17歳の時に母を、22歳の時に父を亡くし、3人の兄弟も早世したペルゴレージは、自身も病弱で、結核のため僅か26歳で亡くなった。「スターバト・マーテル」 [試聴]は彼が死の直前に書き上げた、まさに絶筆だ。おそらくペルゴレージは自らの死が近づいていることを感じていたのだろう、「スターバト・マーテル」にはイタリア的美感の中に、何とも言えない悲しさが漂っている。ちなみにペルゴレージの死後10年ほど後、かの大バッハがペルゴレージの「スターバト・マーテル」を手直しして詩篇51 BWV1083 [試聴]という作品に仕立て直している。ペルゴレージより25歳も年長でプロテスタントのバッハですら、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」に強く惹き付けられ、何かをせずにはいられなかったようだ。

Gioachino Antonio Rossini

ジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)

 今回上演されるジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)の「スターバト・マーテル」 [試聴]は、数多くの「スターバト・マーテル」でも特に人気の高い作品である。オペラの作曲家として大成功を収めたロッシーニだが、1830年のフランスの七月革命でパリでのオペラ活動が難しくなった。翌1831年、ロッシーニはスペインのマドリードを訪問、ここで助祭ヴァレーラから「スターバト・マーテル」の依頼を受けた。だがこの頃のロッシーニは心身ともに不安定で全曲を書き上げられず、第2、3、4、10曲の4曲はジョヴァンニ・タドリーニの手を借りることになった。この形で1833年4月5日にマドリードで初演が行われた。

 ところが1835年にヴァレーラが亡くなると、楽譜がパリの出版社に流出してしまった。ロッシーニは出版を阻止し、1841年に自分で第2、3、4、10曲を作曲し、1842年1月7日にパリで自作に差し替えた「スターバト・マーテル」を初演した。もちろん一般的にロッシーニの「スターバト・マーテル」といえばこちらである。

 ロッシーニの「スターバト・マーテル」は、1810、20年代の彼のオペラの強烈な劇場的興奮と比べるとずっと教会音楽的で、節度ある壮麗さと熱気が大きな特徴になっている。

 ロッシーニが最終的にパリに腰を据えて「余生」を過ごすようになったのは1855年のこと。七月革命からそれまでの四半世紀は、ロッシーニにとって苦労の多い時期だった。この間、ロッシーニはほとんど大作を手がけていない。二つの時期に分かれて書かれたとはいえ、「スターバト・マーテル」は、オペラの筆を折って以降のロッシーニがなおも充実していたことを証明する傑作である。


【試聴について】
[試聴]をクリックすると外部のウェブサイト「ナクソス・ミュージック・ライブラリー」へ移動し、プログラム楽曲の冒頭部分を試聴いただけます。



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