HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2016/11/17

ボリス・ギルトブルグが伝える、ラフマニノフの《24の前奏曲》の神髄

文・伊熊よし子(音楽評論家)

ラフマニノフの「24の前奏曲」

 セルゲイ・ラフマニノフのピアノ作品は、彼自身のピアニストとしての才能をあますところなく表現したもので、そのダイナミックな和音効果には目を見張るものがある。

 事実、ラフマニノフはピアニストとして出発した音楽家であり、そのピアノ作品は世界中のピアニストにとって、非常に重要かつ魅力あるものとなっている。

セルゲイ・ラフマニノフ
 By Moscow Conservatory
 (www.pianoparadise.com)
 [Public domain],
 via Wikimedia Commons

 1873年3月20日、ロシアのノヴゴロド州の小村オネガに生まれたラフマニノフは、ペテルブルクとモスクワの音楽院に学び、ここでピアノをアレクサンドル・ジロティに、作曲をセルゲイ・タネーエフおよびアントン・アレンスキーに学んだ。

 卒業後はピアニストとしてモスクワ、ドレスデン、アメリカの各地に演奏旅行に出向き、各々の地に定住しながら、晩年はアメリカのビバリーヒルズに居を定めて作曲と演奏の両面で活躍し、ここで1943年3月28日に亡くなっている。

 ラフマニノフのピアノ作品は古典的な技法とロマン的な精神が息づいているもので、ことに抒情的な旋律と哀愁に満ちた楽想は人の心を強くとらえる。

 さらにロシア的国民性が曲に反映され、スラヴの色彩が濃厚に感じられる。それはソロ作品でもコンチェルトでも同様の特質であり、情熱的な表現、抒情性などの面から見て、典型的なロシア作品ということができる。

 ラフマニノフは、その生涯に24曲(初期の作品と遺作を含めると27曲)の前奏曲を残している。

 第1曲にあたる嬰ハ短調の前奏曲作品3-2は、彼がモスクワ音楽院を卒業した翌年の1892年に作曲され、同年9月26日にモスクワで作曲者自身のピアノで初演されている。そして1893年に他の4曲の小品と合わせ、作品3として出版された。

 曲は、クレムリン宮殿の鐘の音にインスピレーションを得たといわれる荘重かつ非常に印象的な曲想からスタートする。抒情的でありながら、ドラマティックな効果を備え、若きラフマニノフのロマンティックな性格が遺憾なく示され、人気の高い作品となっている。

 「10の前奏曲」は1902年から翌年にかけて書かれたが、第5番だけは1901年に作曲されている。ラフマニノフは敬愛するJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」、ショパンの「24の前奏曲」にならい、平均律音階の24の異なった調性によって書かれている。

 各曲が非常に個性的でラフマニノフのあふれんばかりのロマンが聴きどころだ。

 「13の前奏曲」は1909年のアメリカ演奏旅行から帰国し、モスクワに定住した1910年秋に短期間で書かれている。「10の前奏曲」の7年後に作曲されたわけだが、内容的にはこれまでのロマンティックな楽想を受け継ぎ、そこにわずかながら近代的な手法が顔をのぞかせているところが印象的である。

ロシアが生んだ実力派、ギルトブルグ

 今回の前奏曲の演奏者として登場するのはロシアが生んだ実力派、ボリス・ギルトブルグ。1984年モスクワに生まれ、母親の元で5歳からピアノを始めた。

ボリス・ギルトブルグ

 彼の名が一躍世界に知られるところとなったのは、2013年のエリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝の栄冠に輝いてから。その2年前にはルービンシュタイン国際ピアノ・コンクールでも第2位を獲得した。

 演奏の特徴は超絶技巧をものともしない高度なテクニックだが、エリザベート・コンクール以降は完璧な技巧に情感の豊かさと表現の幅広さが加わり、聴き手の心の奥に響くピアニズムに変貌を遂げている。

 今回のラフマニノフの前奏曲は、ロシア・ピアニズムの特徴である楽器を豊かに鳴らし、レガートを大切に、旋律をうたわせることが求められる作品。ギルトブルグの真骨頂を発揮する場になるに違いない。



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