HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2013/03/28

音楽作品としての《春の祭典》

近現代音楽の嚆矢と目され、いまだに鮮烈な輝きを失わないストラヴィンスキーのバレエ音楽《春の祭典》。この傑作の構造を作曲家の川島素晴氏が分析します。

文・川島素晴(作曲家)

リズム法の革命

 従来の西洋音楽は、強拍と弱拍の交代で4拍子が形成されるように、循環的なリズムを前提としていました。ムソルグスキーが《展覧会の絵》の冒頭で示した5+6拍子や、チャイコフスキーが《アンダンテ・カンタービレ》で示した拍子の交代は、西洋音楽の伝統でいうなら革命的だったわけですが、彼らはそれを、実に素朴な「うた」として導入しています。ロシアから、リトアニアなどの東欧寄りの旧ソ連に属していた地域では、そのような循環的なリズムを持たない旋律も多く歌われており、自国の音楽に取材した要素を取り入れる国民楽派の系譜に自然に連なるものとして、これらの変拍子の導入はなされました(日本人としては、「あんたがたどこさ」を思い出すと、循環的ではなく1拍1拍、拍を加算していくようなリズム感覚を理解しやすいと思います)。一方で、チャイコフスキーの《交響曲第6番》第2楽章に見られる、循環的なリズムとして5拍子が継続的に用いられる用法も、斬新さを意図したものというよりは、民族舞曲に由来する感覚であり、国民楽派の潮流に属する自然な導入といえます。ストラヴィンスキーも、《火の鳥》のフィナーレで7拍子を用いるなど、変拍子を多く用いますが、それらの変拍子の多くは、ロシア音楽の伝統の延長に位置付けることができます。

 しかし《ペトルーシュカ》では、一歩進めてポリリズムの様々な用法を実践しました。そして《春の祭典》では、さらに決定的な革命が行われています。作品冒頭から、それまでに見られた様々なリズム実践の発展形を示しつつ、徐々に革新的な手法に至るという、作品全体がリズム法の革命の軌跡とでもいえる様相を呈していることも興味深いです。

 第1部「序奏」では、拍点を曖昧にし、浮遊するようなリズム感で満たしています。続く「春の兆し」では、2拍子で8分音符が連打されるなか、不意を打つようなアクセントがイレギュラーに現れ、「リズム動機」を示します。このようなシンコペーションは、いつ打たれるか予測不能であるために、身体反射的なリズム感として動物的本能を直撃します。「長老の行進」では、主旋律が4拍子で進行するなか、大太鼓が3拍子を打ち続けます。その3拍を2等分するドラ、さらに4等分するギロの刻みが加わっていき、全く異なるリズムが同居する、ポリリズム構造が現前します。

 第2部3曲目「選ばれし生贄への賛美」の直前に、弦楽器のトゥッティとティンパニ4個、大太鼓によって11拍の連打が行われると、一気に変拍子が複雑になります。ここでは、5/8拍子のような8分音符単位の拍子と、7/4拍子のような4分音符単位の拍子とが入り乱れます。このように、1拍の単位が変化するかたちでの変拍子は、リズムの着地点が常に予測不能であるため、先述のシンコペーション以上に、原初的な感覚を呼び覚ます効果があります。しかしここではまだ、1拍の単位そのものはカウンタブル(数えることができる)なものですが、続く終曲「生贄の踊り」では、1拍の単位が何であるか自体が、一聴しただけでは全く見当もつかないものになっています。2/16、3/16、3/16、2/8...といった具合に、16分音符単位で2つ、3つの拍が入れ替わる状態は、「1拍」の長さそのものが変化する状態であり、もはや、1拍目、2拍目...という、通常の意味での拍の勘定ができなくなってしまいます。それでもまだ、もしも拍頭に必ず音が鳴らされているなら、小節の単位くらいは追いかけられるでしょう。しかしここでは、時折、拍頭の音を欠いた小節があるのです。拍単位が変化する究極の変拍子であるうえに、拍頭がない箇所があるとなれば、聴き手は完全に五里霧中となります。しかも、拍頭のない箇所で、裏拍に弦楽器のトゥッティで重弦が弾かれますが、これは元来なら拍頭でいっせいに動きを合わせて行われるような奏法です。それを裏拍で行わねばならない状況は、まさに条件反射的な筋肉運動を求められており、例えれば、暗闇で四方八方から不意に平手打ちを喰らうような感覚とでも言えましょうか。このような感覚は、それまでの西洋音楽には全く存在しなかった感覚です。原初的な直観に訴えつつ、儀式的熱狂のなか、錯乱状態で行われる生贄の踊りを表現するのに相応しい、全く新しい表現を実現しました。先述したように、このような革新的表現に、聴き手を徐々に順応させ引き込んでいく全体の時間構成もまた、ストラヴィンスキーの手腕を示すものと言えます。

楽器編成と管弦楽の用法

 バレエ音楽として作曲された割には、5管編成という大人数を必要とし、ピットに入りきる限界となっています。しかしその分、《火の鳥》や《ペトルーシュカ》では活躍していたピアノやチェレスタ、ハープ、木琴など、幅をとる楽器は用いておらず、三大バレエの前2作との響きの相違は、そのことだけでも決定的です。前2作が比較的印象主義的な、絢爛豪華さやきらびやかさを具えているとすれば、《春の祭典》は原初的なエネルギーを重視し、表層的な虚飾を排した音像を中心に据えているのです。

 また、「祖先の儀式」における長大なソロをはじめ、全編で大活躍するアルト・フルート、「序奏」(第1部)で見られるバス・クラリネット2本の掛け合いなど、特殊楽器が多用され、しかもそれらが、むしろ通常の楽器より活躍する点も特筆に値します。木管楽器の首席奏者が目立つのは、有名な冒頭のバスーン・ソロくらいでしょうか。そしてそのバスーン・ソロも、ご承知の通り、通常では用いられてこなかった超高音域によるため、特殊楽器を用いるのと同様の効果があります。このような、木管楽器の究極的高音域の用法としては、ラヴェルが前年に発表した《ダフニスとクロエ》(《春の祭典》と同様、ディアギレフの委嘱)で書いたオーボエ・ソロなど、同時代のトレンドではありましたが、《春の祭典》で重要なのは、それが全くのソロであること、そしてその不可解な音色が全ての発端となり、徐々に楽器が重なって混沌としていく道筋を予感させている効果を持っていることです。「序奏」(第1部)全体は、ほとんど管楽器しか登場しません。バスーンから派生し、管楽器群が奏でる線が蠢き増殖していく様は、「春」における生命の神秘を彷彿とさせます。突如我に返り、冒頭のバスーンが半音下がって再現された後、突如として弦楽器のトゥッティで和音が連打される「春の兆し」に入りますが、この木管楽器と弦楽器の大転換がもたらす空間効果たるや、ピットに収めておくのはもったいない絶大なものです。

 ところで、この弦楽器のトゥッティによる連打など、《春の祭典》ではリズム主体の楽想が多用されるわけですが、ここで凡百の作家であれば、一緒に打楽器を添えるところでしょう。実際、《春の祭典》には打楽器が多用されているイメージをお持ちの方も多いかもしれません。しかしよく見てみれば、従来の発想なら打楽器を加えて補強しそうな箇所でも、ストラヴィンスキーは打楽器を加えていないのです。この「春の兆し」の弦楽器のアクセントを補強するのはホルンのアンサンブルだけであり、他には何も加えていません。原初的リズムをワイルドに表現しつつ、楽器本来の音色を濁すことなくオーケストレーションすることで、多様な音色感でリズムを表していることがわかります。打楽器が活躍するところも多数ありますが、それらはほとんど、添え物としてではなく、打楽器そのものの音として表現されています。この作品の上演には、最低でも打楽器奏者が6名は必要ですが、全奏者が総動員されるのは、終盤の「祖先の儀式」のたった6小節のみです。

 細かい楽器用法についても、天才の発想力に驚嘆する箇所は枚挙にいとまがありませんが、ここでは第1部終盤、4小節のみしかない「大地への口づけ」という部分についてご紹介します。この部分では、持続音をバスーン3本が奏で、第2ダブル・バスーンが高音域で半音の上下を示すメロディを奏でます。そのなかで、「タンタン」というリズムが4回鳴らされますが、そのリズムを担当しているのが第1ダブル・バスーン、ティンパニ、コントラバスのソロという、3つの楽器の高音域のユニゾンなのです。低音楽器による高音のユニゾンをあえて用いることで、緊張感の高いパルスが実現しています。この神秘的なシーンの得も言われぬ表現は、このような特殊な楽器法を駆使することで得られたものなのです。

 このように、《春の祭典》のスコアには、管弦楽法、楽器法の天才的な発想力を随所に見ることができ、筆者は何度このスコアを見直しても、必ず何らかの発見があるほどです。

音組織

 シェーンベルクが無調音楽を創始し、12音技法に進む前にその集大成としてものした《月に憑かれたピエロ》を1912年に作曲していることを思えば、翌年に発表された《春の祭典》は、音組織の面ではむしろ保守的と言えます。不協和音に満ちているように思われますが、この音楽は本質的に民謡的素材の編曲作品であり、そのほとんどは調性的感覚を前提に作曲されているからです。しかし、調性的感覚に根差しつつ、ここまで斬新な音感覚を実行したことの方が、ともすれば、ある種の革新性を帯びていると評することができると思います。

 《ペトルーシュカ》でストラヴィンスキーは、白鍵の音と黒鍵の音を同時に提示することによる多調的書法を実践しました。ピアノパートが活躍するこの作品ならではのアイデアだったわけですが、その発想を、《春の祭典》でも発展的に継承しています。

 冒頭のバスーンのメロディは、「ミ・ソ・ラ・シ・ド・レ」という、6つの白鍵上の音のみで構成されています。その応答として登場するイングリッシュ・ホルンのメロディは、対照的に、「ド♯・レ♯・ファ♯・ソ♯」という、4つの黒鍵上の音のみで構成されています。そして、それぞれをつなぐ背景の音は、半音階で上下しつつ支えているのです。ここで示された3つの音組織、すなわち「白鍵音階の6音」と「黒鍵音階の4音」、及び「半音階」は、この後の全ての音楽構造を支配しており、いわば、この冒頭部分が、《春の祭典》全体を包括していると言えます。一聴すると千変万化の音楽像が次々に展開する自由な構造を感じますが、このようにとらえると、堅牢な構築物としての見事な造形が存在していることに気付くことと思います。

 例えば、「春の兆し」冒頭の弦楽器の連打音の不協和音は、それに続く変ホ長調の主和音(といっても5度堆積和音となっている)に接続されるドミナント和音として機能していますが、この和音の構成音は、先述の冒頭部分におけるバスーンとイングリッシュ・ホルンが提示した音由来のものとなっています。

 このように、一見、斬新に響く音の全ては、見事なまでに冒頭の素材の延長として構築されており、この作品の持つ集中力、説得力、音楽的なエネルギーは、そのような書法的充実を背景にしていることも、見逃せない事実です。

 ラディカルな表現は、伝統を継承しつつ発展させるときに真の革新を生む、ということを、この《春の祭典》ほど、如実に示している作品は、他にないと言って過言ではありません。


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