HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2013/01/16

東京春祭のStravinsky vol.2 ストラヴィンスキー・ザ・バレエ
《アポロ》《春の祭典》の楽しみ方

ストラヴィンスキーの《春の祭典》が初演されて100年目にあたる今年、東京・春・音楽祭では、ストラヴィンスキーが音楽を書いた2本のバレエ作品《春の祭典》と《アポロ》(《ミューズを率いるアポロ》)を上演する。そこで今回は、本公演の「聴きどころ」「見どころ」を、音楽評論家の許光俊氏とバレエ評論家の守山実花さんにお話しいただいた。

お話:
許 光俊(音楽評論家、慶應義塾大学教授)
守山実花(バレエ評論家)

:イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)というと、チャイコフスキーと並ぶくらい有名なバレエ音楽を書いた人です。しかも、《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》の三大名作の他にも、たくさんのバレエ用作品を書いています。彼は多作家だったのですが、それにしても多い。こんな大作曲家は他にいません。実際のところ、バレエの世界において、ストラヴィンスキーはどのような存在感を持っているのでしょうか?

守山:20世紀のバレエの歴史は、ストラヴィンスキーなしには語れません。  20世紀のバレエはバレエ・リュス(クラシックの世界では「ロシア・バレエ団」と呼ばれる)から始まりますが、バレエ・リュス時代のフォーキン、ニジンスキー、マシーンにはじまり、バランシン、ロビンズ、ベジャール、バウシュ、ノイマイヤー、キリアン、プレルジョカージュ......20世紀の主要な振付家の大半が、彼の音楽に振付けています。

:20世紀でもっとも重要だったバレエ音楽と言ってもよいわけですね。ストラヴィンスキーの音楽は、おおまかに言うと、最初は19世紀の色が濃い、ロマンティックな常識を踏まえたものだったのですが、やがていかにも20世紀らしい、大胆で実験的な要素を取り込んだものになっていきました。荒々しい暴力表現や、土俗的なリズムなどがその例ですが、踊りの歴史としても、このような変化は見られるのでしょうか?

守山:そのとおりです。

《春の祭典》の革新性

:彼は20代に《火の鳥》で一躍有名になったのですが、これは確かにすばらしい名曲です。オーケストラが実に色彩豊かだし、ドラマティックな振幅も広いし、濃厚な森の匂いがする。神秘性もある。天才が、自分にはここまでできるという自覚もないままに、すごいものを創ってしまったという感じがします。その初々しさも魅力です。それに比べると、《春の祭典》はわずか3年後の作曲なのですけれど、自信満々というか、風格があるというか、こういうことをやってやろうというしたたかな戦略がわかる曲です。原色の絵の具をぶちまけたようなシーンであっても、精密に計算されています。2013年は、ちょうど作曲・初演から100年目にあたります。
 《春の祭典》では、たとえばチャイコフスキーや《火の鳥》みたいな、男性主人公、女性主人公というものが存在しませんね。もっと集団的です。そもそも、登場人物にイワンとかペトルーシュカといった名前がつけられていませんね。

守山:集団が生贄の乙女を選び、乙女は踊り続け死ぬ、異教徒の祭儀です。《火の鳥》や《ペトルーシュカ》では、鳥なり人形なりをダンサーが表現する点において、バレエの伝統的なテーマとの関係が完全に断ち切れたわけではありませんでした。振付の面でもそうです。
 《春の祭典》はそこからぐっと大きく前に進んだ感じがします。初演の振付はニジンスキーに任されますが、彼の振りはダンサーにとっても観客にとっても、あまりに型破りなものでした。

:《春の祭典》という日本語だと、何だか明るい春のお祭りが連想されてしまうのですが、実際にはこれは古代人の残酷な儀式なのですね。古代においては、近代のような個々の人間という考えが確立されていませんから、登場人物には名前もない。《春の祭典》の本当の主人公は、大地というか、生命というか、個々の人間を超えたものとも感じられます。宇宙を動かす無目的なエネルギーとも。
 バレエの伝統的な動きとは、あくまで優雅な範囲にとどまりながら、喜怒哀楽を表現しているのですよね? 《春の祭典》の、そうした常識を越えた踊りや音楽は、のちのさまざまなダンスというか身体表現、たとえば暗黒舞踏のようなものまで導き出すような、一種の芽生えのようなものと考えてもよいのでしょうか?

守山:ニジンスキーの版では、ダンサーは首を曲げ、猫背気味の姿勢をとり、足は内股です。足を踏み鳴らす動きも多い。伝統的なバレエの基本姿勢とはまるで異なります。天上方向、つまり理想化された世界を目指す19世紀のバレエと、《春の祭典》の内側へ、下方へと向かう意識は正反対です。バレエの様式美を破壊する動きが、「宇宙を動かす無目的なエネルギー」を湧き上がらせています。未来のダンス、身体表現を予告するものだったと言えます。  この版では、犠牲となる乙女は、生贄として選ばれたあと、約8分間はただ立ったままです。その後、急に飛び上がって約7分間で130回のジャンプを続けます。着地するたびに足で床を踏みしめ、大地と一つになっていくようにも見える。絶望や死への畏怖だけでなく、神、大地のエネルギーと一体になることへの恍惚までもを表現したのではないかと思えます。

:それは確かに100年前としては常識を越えていたでしょうね。「東京・春・音楽祭」では、戦後のバレエ界を代表する重要人物のひとりと思われるベジャールの振付が踊られるのですけれど、その特徴、魅力は何でしょう?

守山:無数の男女の体の内から湧き上がっていく衝動、熱が肉体を突き破り爆発する様として、音楽を視覚的に表現しています。音楽が持つ宇宙的エネルギーを、原初的な人間の欲望や獣性と重ねたのです。春、欲望が目覚め、燃え立ち、新たな生命が生まれる祭典としたわけです。男女の生贄が選ばれて、肉体を重ねるのですが、ベジャールは発情期の鹿、交尾する鹿を描いた映画にインスピレーションを得ています。鹿の動きがストラヴィンスキーのリズムにピッタリだというのです。最後にはすべてのダンサーがカップルとなり、向かいあい、あのリズムにはじかれるように身体をぶつけ続けます。腰でリズムが刻まれます。衣装はシンプルなボディタイツ、装置もありません。「古代の異教の人々」というような枠もない。舞台にいるのはただの男と女です。

:なるほど、それはずいぶん刺激的ですね。もともと舞台設定や筋書きよりも、ストラヴィンスキーの音楽が持つ根源的な力や特徴に霊感を得た振付と言ってよいのでしょうね。

守山:肉体そのものの力、躍動感、官能性を前面に押し出して、渦を巻きながら増幅していくエネルギーを視覚化しています。

21世紀の《アポロ》

守山:ストラヴィンスキーは、その後もバレエ・リュスのために《結婚》《ミューズを率いるアポロ》などを作曲していますが、《ミューズを率いるアポロ》(1928年)になるとだいぶ作風が変わりますね。

:ええ、こちらは《春の祭典》のだいたい15年くらいあと、つまり作曲者が45歳ころに書かれたものです。野蛮と言いましょうか、伝統を破壊する生々しい迫力に満ちた音楽の路線を極めたストラヴィンスキーが、今度は逆に、ハイドンやモーツァルトなどに代表されるような、ずっと昔の音楽に回帰しました。新古典主義と呼ばれているのですが、たとえば管楽器や打楽器を駆使した三大バレエのような処方とは逆に、節約した編成で、簡潔、明快な音楽を書き始めたのです。
 《アポロ》にしても、弦楽器だけによる作品ですし、聴けばすぐわかるように、ほのぼのというかくつろいだ感じが強い。そもそもミューズだのアポロだのという古代ギリシア由来の題材を用いているところが、実に象徴的です。もっともそうは言っても20世紀音楽ですから、現代のシンプル・モダンに通じる美意識もあります。

守山:初演版の振付はジョージ・バランシン、後にバレエから物語性を取り除き、シンフォニック・バレエを作ることになる人で、ストラヴィンスキーの音楽に振付けた作品もたくさんあります。ストラヴィンスキーとの初顔合わせになるこの作品では、古典的なステップを用いながら、創意あふれる新しい動きやパートナーリングを取り入れ、ダンサーの身体が作り出す明晰なフォルムや動きを追求しました。
 今回はベジャールのカンパニーでダンサーとして活躍したパトリック・ド・バナが新作として振付けます。演奏者も舞台にあがり、ダンサーと一体となる演出が構想されているそうです。バランシン版のアポロの誕生の場面は、現在ではめったに上演されないのですが、ド・バナ版では、アポロの母レトも登場します。バランシン版とはまったく異なる21世紀の《アポロ》になりそうです。

:上演が楽しみです。



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