HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2011/03/18

歌劇《ローエングリン》〜 映画のなかのワーグナー

松本 學(音楽・バレエ・映画評論)

ワーグナーと映画音楽

 ワーグナーの音楽を用いた映画作品は数多い。多くの方が真っ先に思い浮かべるのは、おそらく〈ヴァルキューレの騎行〉だろう。『崖の上のポニョ』で、という方もいるかも知れないが、やはり『地獄の黙示録』での印象がもっとも強烈。そこでは、ヘリに乗り込んだ第一騎兵師団のキルゴア中佐が、この曲を流しながらヴェトナムの野をナパーム弾で焼き尽くすという残虐極まりない行為が描かれている。大音量で鳴らされるワーグナーの音楽は、逃げ惑う住民の恐怖を増幅させ、米軍にとっては自らの狂気を煽る役割を果たしていた。

 では〈ヴァルキューレ〉に次ぐ人気作品といえば……さて何があるか。ワーグナーは映画においても人気なので、たとえば《タンホイザー》を用い、オペラ上演の紆余曲折を描いたイシュトヴァン・サボーの『ミーティング・ヴィーナス』、はたまた同じ《タンホイザー》ながら、相当に不気味に展開していくラース・フォン・トリアーの『エピデミック』、あるいはアーサー王伝説を扱ったジョン・ブアマンの『エクスカリバー』など次々に挙げられる。いやいや、ヴェルナー・ヘルツォークも複数作品で用いているし、ルイス・ブニュエルや昨年亡くなったクロード・シャブロルの作品も思い出深い。そういえばジェイムズ・ディーンの出演作にもあった(『理由なき反抗』)……という具合に、各々の映画体験によって色々と出てくるに違いない。

 そうしたなかから、ここでは間もなく「東京・春・音楽祭」で上演される歌劇《ローエングリン》の音楽を用いた映画を採り上げてみよう(《ローエングリン》のストーリーについては、当ウェブサイトの別ページをご参照下さい)。

 先に、映画に使われたワーグナー作品でもっとも有名なのは〈ヴァルキューレの騎行〉と書いたが、実はそれ以上に、いやあらゆるクラシック作品のなかでもトップクラスに使用されているのが《ローエングリン》である。種を明かせば何ということはない。どなたでもご存知の、あの〈結婚行進曲〉である。メンデルスゾーンのそれと並んで、結婚シーンの定番中の定番だ(これ以外でいえば、パッヘルベルのカノンやヘンデルの小品あたりか)。もう“お約束”過ぎて、この曲を使った映画は、むしろ音楽面にあまり労力をかけていないプロダクションなのかと疑いたくなるくらいなので、この曲の話はここまで。

 さすれば、やはりルキノ・ヴィスコンティの大作『ルートヴィヒ』(1972)を挙げないわけにはいかない。この作品は、北イタリアのミラノで生まれ育ったヴィスコンティが、イタリアよりも慣れ親しんでいたドイツをテーマにした、いわゆる“ドイツ3部作”の一つである。ちなみに、他の2作は『地獄に堕ちた勇者ども』(69)と『ベニスに死す』(71)。本来は『魔の山』を加えた4部作として計画していたが、残念ながら実現しなかった。

映画『ルートヴィヒ』のストーリー

『ルートヴィヒ 復元完全版』 『ルートヴィヒ 復元完全版』
DVD
KKDS-92
6,000円(税別)
販売元:紀伊國屋書店

 映画は1864年3月のバイエルン王、ルートヴィヒ2世(1845〜86)の即位前夜(神父に即位への祝福と王としてのアドヴァイスを受ける場)から始まる。ルートヴィヒ19歳目前のことだ。物語はここから、ルートヴィヒの周辺にいた政治家や側近の彼に対する調査報告やコメントを柱に、様々なエピソードを時系列的に回想していく手法で進められる。そのなかには、彼が唯一心を向けた遠縁のシシィことエリーザベト(オーストリア皇后)や弟オットーとの関係、ワーグナーとの関係、シシィの妹ゾフィとの婚約と破局、ハンガリーの女優リラ・フォン・ブリョフスキーによる誘惑、ホモセクシャルを匂わせる侍従らとの関係、俳優カインツの寵愛、そしてホルシュタイン伯爵をはじめとする閣僚たちの陰謀とベルク城への隔離・幽閉、そしてフォン・グッデン博士との謎に包まれた死までが描かれている。それらのエピソードは、たとえばシャン・デ・カールの『狂王ルートヴィヒ 夢の王国の黄昏』(中公文庫)で書かれている内容にかなり忠実だといっていいだろう(無論、映画的な演出=微調整はある)。

『ルートヴィヒ 復元完全版』 ルートヴィヒ(ヘルムート・バーガー)
©1972-MEGA FILM-CINETEL-DIETER GEISSLER
FILMPRODUKTION-DIVINA FILM;
All Rights Reserved.

 映画のなかでワーグナーは、エリーザベトに次いで重要な役を担う。しかしながらヴィスコンティは、作中に彼の音楽はふんだんに用いつつも、この作曲家の俗物さと、小市民的な性格を主に描いているようだ。つまり、浪費家である側面、ビューローの妻コジマの略奪婚、そしていつしか普通の家庭人のようになったことを象徴する《ジークフリート牧歌》のエピソード(この逸話はデ・カールの書物では触れられていない。また映画では、指揮はワーグナーでなく、かつリヒターがヴィオラとトランペットを兼ねたといった史実は踏襲されていない)などが描かれ、現在ワグネリアンたちに聖地と崇め奉られているバイロイト祝祭劇場は、名前こそ2度ほど言及されるものの、その姿を登場させることはない。さらに(映画の時間的制約もあるだろうが)婚約中のゾフィを引き合わせた時点(1867年)以降、《ジークフリート牧歌》の場面を除いてワーグナーが登場することはなく、終盤近くでルートヴィヒが建てた城を順に訪問するエリーザベトが、「随分昔のことよ」と、この作曲家が亡くなったことにたったひと言触れるのみである(リンダーホーフ城での会話)。

《ローエングリン》の音楽

 さて、本編に《ローエングリン》が使われているシーンをざっと挙げてみよう。①ルートヴィヒがワーグナーと会うことを望み、その捜索報告を聞く:第1幕への前奏曲[10分45秒]。②エリーザベトの妹ゾフィと婚約。彼女がピアノを弾きながらルートヴィヒに歌って聴かせる:〈エルザの夢〉[1時間37分過ぎ]。③ゾフィと婚約したルートヴィヒは、彼女をワーグナーに引き合わせる。その後ワーグナーが帰る場面:第1幕への前奏曲[1時間48分過ぎ]。

 約4時間を要する本編のなかで、《ローエングリン》が用いられるのは、時間としては実はそれほどではない。どちらかと言えば、《タンホイザー》と《トリスタンとイゾルデ》のほうがずっと使用頻度は高い。たとえば、エリーザベトや弟のオットーとのシーンでは、もっぱら《トリスタンとイゾルデ》の〈愛の死〉や第2幕が、リンダーホーフ城の人工洞窟では《タンホイザー》から〈夕星(ゆうずつ)の歌〉などが用いられている(“ヴェーヌスベルク”を象っているリンダーホーフの洞窟には相応しいセレクトだ)。また映画の最初と最後、また各所で印象的に聴かれるのは、ワーグナーの遺作といわれるピアノ曲《悲歌》WWV93である(含編曲)。

 それでもなお、《ローエングリン》は重要な役割を担っている。なぜなら、ルートヴィヒの生い立ちや理想といった、彼のバック・グラウンドにかかわる作品といえるからだ。幼い頃に暮らしたホーエンシュヴァンガウ(元シュヴァンシュタイン)は、かつて白鳥の騎士ローエングリンの城だったといわれており、そこで多くの時間を過ごしたルートヴィヒは、この伝説の英雄に強い関心を抱いていた。ローエングリンこそ、少年時代からの彼の憧れであり、15歳で初めてこの作品を観劇し、18歳で3度目の《ローエングリン》を観て、その後のワーグナーへの熱狂と執着が決定付けられたという、きわめて重要な作品なのである。

 また《ローエングリン》の音楽は、この映画のなかで、ルートヴィヒによるワーグナーの捜索・登場、そして彼の前から去るシーンに用いられている。自らの存在を高め、しかし留まることなく去っていくという点で、ルートヴィヒにとってワーグナーはすなわちローエングリン的な存在であったことを音楽に象徴させていると言えるのではないだろうか。いっぽう、ゾフィはもちろんエルザであり(ルートヴィヒ自身も実際に彼女をそう呼んでいた)、ローエングリン(=ルートヴィヒ)と婚約し、そして破局する運命が重なり合う。

もう一つの関連映画

『独裁者』 『独裁者』
DVD
KKDS-528
3,800円(税別)
販売元:紀伊國屋書店

 もう一つだけ《ローエングリン》を効果的に使用した映画に触れておきたい。それはチャップリンの『独裁者』(1940)である。この作品は、映画史レヴェルともいえる名シーンがいくつかあるのだが、そのうちの一つである、独裁者ヒンケルがひとり執務室にこもり、地球儀の風船で踊る場面に第1幕への前奏曲が用いられている。独裁者が地球を玩ぶような演出によって、世界を思うがままにしたいという権力への欲望や、権力者の孕む幼児性などを表しているのだろう。が、そのようなおぞましいシーンに、このきわめて神秘的で美しい音楽を用いることで、あたかもバレエのような優雅さを与えた。幼児性を突き抜けて、もはや天真爛漫さすら感じさせる名シーンである。

『独裁者』 チャップリン扮するヒンケル
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 さらにこの前奏曲はもう一度、きわめて名高いクライマックスの演説シーンの終わりに登場する。追っ手に見つかり、拉致されようとした恋人ハンナたちに、チャップリン扮するユダヤ人の床屋がラジオを通じて世界の理想を語りかけるシーンだ。その瞬間、第1幕への前奏曲が救済の如く彼女たちに降り注がれる。これこそまさに《ローエングリン》らしい使われ方と言えるだろう。先の“独裁者の愉悦”と、ラストでの“迫害された者の救済”という、まるで相対する場面に同じ音楽を用い、双方でこのうえなくしっくりくるように演出したチャップリンのセンスには脱帽せざるを得ない。

 以上、駆け足で二つの映画をご紹介してみた。「東京・春・音楽祭」の《ローエングリン》と併せてお楽しみいただけたら幸いである。


~関連公演~

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