HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2010/12/20

ニューヨーク、メトロポリタン・オペラで輝く イザベル・レナード

小林伸太郎(音楽評論家)


  • イザベル・レナード

 メトロポリタン・オペラは、ここ数年、大物指揮者のデビューが相次いでいる。2010年11月に上演された《コジ・ファン・トゥッテ》は、バロックの世界で評価の高いウィリアム・クリスティがついにメット・デビューを果たすというので、大きな話題を呼んだ。モーツァルトのオペラは、毎年必ず各地のオペラハウスのレパートリーに入っていて、学生によるプロダクションも数多い。特にポピュラーな演目になると、お目にかかる機会は非常に多い。しかし、満足感を得ることのできるモーツァルトの上演というのは、意外に数少ない気がする。この11月の上演は、クリスティのテンポが非常に面白かったりしたのだけれども、何よりも若手中心のキャストによるアンサンブルが清清しく、とてもチャーミングな上演となっていた。2011年3月に来日するメゾ・ソプラノ、イザベル・レナードは、この上演のドラベッラ役であった。

地元の劇場デビューが “メット”という快挙!

 歌手には、いわゆる地元の劇場や地方の劇場で経験を積んでから、第一線に打って出るタイプの人と、いきなり大舞台で頑張ってしまうタイプの人がいる。レナードの地元の劇場へのデビューは、大学院修了後間もない2007年のことであった。しかし、ニューヨーク生まれの彼女にとって、地元の劇場というのは、世界のトップクラスの歌劇場であるメトロポリタン・オペラであった。彼女の場合、地元劇場へのデビューは、いきなり頑張ってしまわなければならない劇場へのデビューであったわけだ。

 レナードはメット・デビューの前にも、ニューヨーク・フィルハーモニックなどニューヨークの大舞台ですでに歌っていた。子供の頃は、ジョフリー・バレエ・スクールに所属し、高校もパフォーミング・アーツの専門校と、ニューヨークにおいてパフォーミング・アーツ一筋で育った彼女であるから、若くしてそれなりの舞台度胸を身に付けていたのだと思う。そうは言っても、メット・デビューというのは、別格のプレッシャーがあったはずだ。しかし、グノーの歌劇《ロメオとジュリエット》のステファノ役を歌った彼女は、そんなプレッシャーを少しも感じさせず、ニューヨーク・タイムズ紙のうるさ型の批評家も絶賛する、それはフレッシュなデビューを飾った。ステファノ役には、とても印象的な美しいアリアが与えられており、小さな役とはいえ、ある意味でとても注目を浴びやすい役である。だが、今をときめくアンナ・ネトレプコやロベルト・アラーニャといったスター共演者のなかにあって、強い印象を残すというのは、並大抵のことではない。

 幸先のよいデビューは、ビギナーズ・ラックに終わらなかった。メットではその後も、《ドン・ジョヴァンニ》のゼルリーナ、《フィガロの結婚》のケルビーノと、続けてモーツァルトでクリーンなヒットを飛ばし、パリ・オペラ座、バイエルン国立歌劇場、そしてモーツァルトのお膝元、ザルツブルク音楽祭など、ヨーロッパでも次々とデビューを重ねて行ったのである。普通、歌手のキャリアがキャリアとして動き出すには、10年はかかると言われている。また、彼女のようなハイ・メゾの領域には、近年とりわけ優れた若手が多く、競争も激しい。そうしたなかレナードは、学校を卒業してからわずか数年で、メジャーに躍り出てしまったのだ。

難しいモーツァルトを歌いこなす 28歳のメゾ・ソプラノ

 それにしても、モーツァルトのオペラは本当に難しいと思う。その無駄のないボーカルライン、緊密なアンサンブル、贅肉のないオーケストレーションは、歌手の力量、表現力を丸裸にしてしまう。現在、世界の歌劇場で活躍するある有名なソプラノは、モーツァルトを歌うストレスに耐え切れなくなり、ついにレパートリーから外さざるを得なかったと、あるとき私に語ってくれた。完璧にピュアなラインを要求されるモーツァルトを歌うことは、歌手にとって想像を絶するほどのストレスなのだという。声の力や気力といった、いわゆる「熱演」だけで押し切ることのできない難しさが、モーツァルトにはあるのだ。いっぽうイザベル・レナードは、そんなタフなモーツァルトをレパートリーの柱の一つとして、世界中のメジャーな舞台を席巻している。

 ドラベッラ役は、メットでは初めて歌うとはいえ、レナードにとって初役ではない。過去にザルツブルクで歌ったときのものが、DVDにもなっている。しかし、今回のメット出演は、今年5月に第一子を出産後、初めてのオペラ出演だったということで、彼女にとって、これまでとは違った意味で感慨深い公演であったに違いない。ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された記事によると、彼女はエリート・アスリートのようなトレーニングで、産後の体調を整えたという。果たして11月のメットの彼女は、同紙が「琥珀色」と喩えたように、低音からソプラノのような輝きを持つ高音までを、端正なインテリジェンスで爽やかに響かせ、大喝采を浴びていた。

 プロフィールを読むと、すでにかなりの経験を積んでいるものの、まだ28歳のレナードのキャリアは始まったばかりだ。彼女がパフォーマーとして、今後どのように成熟していくのか、とても楽しみだ。

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