HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2010/11/08

見えるオペラ、見えないオペラ 〜「演奏会形式」の可能性をめぐって

舩木篤也(音楽評論家)


  • 昨年、演奏会形式で行なわれた《パルジファル》の上演

「見えない劇場」を考案する!?

 まことに、劇場というところは何が起こるかわからない。

 たとえば、プッチーニのオペラ《トスカ》の最終場面。城をとび降り自ら果てる題名役が、舞台奥にサッと消えたと思ったら、ピョンと空中に舞い上がった、などという話がある。城壁の向こうに隠してあったトランポリンが、うまく調整されていなかったのだ。ウィーン国立歌劇場で実際にあった事件である。

 そこまでいかなくとも、お城があまりにチャチだとか、衣装がトンチンカンだとか、最初の一瞥で、それまで抱いていた作品への「百年の恋」も一気に冷めたというような経験が、誰にもあろう。

 この滑稽さは、「チャチ」を排して写実に徹したところで、解決するものではない。鳴り響く音楽は目に見えず、あくまでも抽象的な現象である。いっぽうで視覚像は、それが、城だの甲冑だの、現実の何事かを指し示そうとすればするほど、具象性を強く帯びてしまう。「オーケストラは見るものではない」といって、オーケストラ・ピットを目隠し板で囲ったワーグナーも、これには最後まで手を焼いた。「まったく虫酸が走るよ。衣装をつけたり化粧をしたりの姿には、特にそうだ。(中略)見えないオーケストラを、私は作ったけれど、見えない劇場というのも考案したいところだね」(1878年9月23日付け「コジマの日記」より)

 抽象と具象。その衝突が、齟齬が、なんともいえぬ居心地の悪さを生むのであり、この居心地の悪さは、写真をはじめ様々な複製技術が長足の進歩をとげ、写実性一般が迫力を増した今日、さらに深刻になってきているだろう。

 では、私たちはオペラを、音楽劇を、もう手放すべきなのだろうか? 手放さぬとしたら、どのような可能性が考えられるだろうか?

「読みかえ演出」か「レコード」か?

 オペラにおいて、いわゆる「読みかえ演出」が普通のことになって久しいが、この動きは、先にふれた齟齬に対する、一つの反応ととらえることができるかもしれない。文字どおりの書き割りが、衣装が、どうしても滑稽に映るなら、いっそのこと台本を無視して、「たとえ」に訴えてみては、という発想だ。ワーグナーの、あの遠大な神話世界、《ニーベルングの指環》で、ヴォータンがネクタイをし、ジークフリートがジーパンを履き、ミーメが電子レンジを使うのは昨今ではよくあること。見る者は唖然とするだろうが、あの「齟齬」をひととき忘れ、メッセージの核心をつかんでくれるのではないか――というわけである。

 もう一つの可能性として、レコード鑑賞に徹する方法があろう。そこでは、視覚像が完全にシャット・アウトされる。20世紀ドイツの思想家・美学者、テオドール・W・アドルノは、すでに1969年の段階で、同じような問題意識からLPレコードに大きな可能性をみてとった。「LPレコードの出現によって、(中略)歌劇場において一度は封じられてしまった音楽の威力と強度を、幾ぶんなりとも奪還することができる」(「オペラとLPレコード」より)

 現在では、収録時間のより長いCD等のメディアがあるから、ワーグナーのいう「見えないオーケストラ」「見えない劇場」は、本当に実現してしまったのかもしれない。

 しかし、どちらの解決法にも、釈然としないものを感じる向きがあるに違いない。これらは、いわば両極端であって、もっと普通に、ナマの姿で作品の真髄に触れることはできないものか、と。

「演奏会形式」という可能性

 そこで注目したいのが、演奏会形式によるオペラ上演だ。東京・春・音楽祭 –東京のオペラの森2011-の、ワーグナー《ローエングリン》全3幕は、まさにこの形式によって上演される。この形式を、ガマンして見る滑稽なオペラ上演でもない、演出家主導の読みかえオペラでもない、孤独なレコード鑑賞でもない、もう一つの大きな可能性として、評価しなおす余地があるのではないか?

 もっとも、実際には、演奏会形式に向いたオペラ作品と、そうでない作品があるだろう。人物のアクションと、場の移動が大きな意味をもつ作品では、効果が発揮されにくいのではないか。ワーグナー作品でいえば、《タンホイザー》《ニーベルングの指環》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》などは、この理由で、大いに工夫が必要となりそうだ。

 では、《ローエングリン》はどうか?

 《ローエングリン》(1850年初演)は、ワーグナー自らが「オペラ」という呼称を付けた最後の作品にあたる。その後、独自の楽劇論にしたがって舞台祝典劇《ニーベルングの指環》を構想してゆくことを考えれば、一個の転回点に位置していると言える。

 そのことはまた、作品の内実にも反映しており、まさにこの内実が、演奏会形式との親和性をはかる鍵となるのだ。

 まずは、惜しみなく使われる合唱の存在。

 合唱=コーラスとは、そもそも、ギリシア悲劇に登場する合唱隊=コロスにその起源をもつ。アイスキュロスやソポクレスの悲劇をひもとけば分るように、コロスは予言めいたことを言ってみたり、登場人物に意見・感情の面で同化したり、あるいは反発したりと、作劇上、とても大きな役割を果たす。「オペラ」は元来、ギリシア悲劇の再生をモットーに1600年ごろに発明された芸術形態だ。ワーグナーは《ローエングリン》の合唱において、これを最後とばかりに、コロス的側面をオペラ史上最大限にうち出したとみてよい(4部作《ニーベルングの指環》では、合唱を形骸化した遺物とみなし、第4作の一部を除き撤廃することになる)。合唱が登場人物のアクションに勝るとも劣らず大きな意味をもつとなれば、演奏会形式には好都合なレパートリーと言えそうである。

 また、音楽の効果とドラマ効果の関連づけを、きわめて図式的に図った点でも、《ローエングリン》は非常にユニークだ。各人物に、それぞれ特定の調を割りあてたのは、その最たるもので、悲しきヒロイン、エルザは変イ長調、彼女を救うべく聖杯城から遣わされるヒーロー、ローエングリンはイ長調といった具合。この半音の違いのみならず、それぞれが経る転調にも、ドラマ上の意味が見いだせる。ワーグナーが、音楽のこの種の体系化にこれほどこだわった例はほかになく、視覚よりももっぱら聴覚でという方向は、やはり演奏会形式になじみやすいものと言えるのではないか。

東京・春・音楽祭ならではの上演

 演奏会形式によるオペラ上演では、演技者のみならず、オーケストラも舞台に乗る。この点が、ワーグナーが後年理想とした「見えないオーケストラ」に反することになるが、今回の上演では、照明による若干の演出が加わる予定で、オーケストラがこうこうと照らされることはなさそうだ。また、最小限の演劇的身ぶり、イメージ画像なども導入するとのことで、視覚的印象は、そうなれば削ぎ落とされるのではなく、抽象化される。具象の側からの抽象への歩み寄り――東京・春・音楽祭ならではの、音・ことば・身ぶりの「綜合芸術」が成ることを期待したい。

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