HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2010/03/29

歩いてみよう、上野界隈
第三回「旧岩崎邸庭園と無縁坂」

コンサートの日、少し早めに家を出て、春の上野を散策してみると、新たな出会いがあるかも----。
情緒あふれる上野とその近隣の街をたずねる本コラム。今回は、湯島の旧岩崎邸庭園を中心にご紹介します。

文・網倉俊旨


  • 旧岩崎邸 洋館(重要文化財)

鷗外が歩いた上野~旧岩崎邸庭園と無縁坂

「そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石の間から、歯朶や杉菜が覗いていた」
 森鷗外は小説『雁』のなかで、明治13(1880)年当時の岩崎家茅町本邸の様子をこのように描写しています。無縁坂は東大から不忍池に出る坂道で、『雁』の主人公である医学部生の岡田は東大の鉄門の真向かいの下宿屋に住み、いつも無縁坂を下って不忍池の北側をまわり、上野の森に入るという道筋で散歩をします。
 無縁坂の南側の土地は、江戸時代には越後高田藩榊原家の中屋敷があったところで、三菱財閥の創業者である岩崎彌太郎がここを購入したのは明治11(1878)年のこと。その後、明治29(1896)年に、彌太郎の長男で三代目の久彌によって敷地内に新たに洋館が建てられました。
 この洋館の設計を担当したのが、お雇い外国人として工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)で教鞭をとり、鹿鳴館や旧東京帝室博物館本館(東京国立博物館の前身)、ニコライ堂などを設計したジョサイア・コンドルです。イギリス17世紀初頭のジャコビアン洋式を基調に、久彌が留学していたペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージも取り入れた木造二階建ての建物で、客室の天井装飾、床のタイル、暖炉などの細部にはイスラム風のデザインが取り入れられています。
 往事には、15000坪余りの土地に20棟もの建物が並んでいたといわれる岩崎本邸。関東大震災が起こったとき、久彌は邸宅を開放して2000人以上の避難民を1ヵ月以上にわたって世話しました。これは岩崎邸の敷地の広大さと、久彌の寛大さを同時に物語るエピソードといえるでしょう。
 戦後、岩崎家本邸はGHQに接収され、諜報機関「キャノン機関」本部となりましたが、現在は公園として整備され、平成15(2003)年からコンドル設計の洋館の内部も一般に公開されています。
 鷗外の『雁』で岡田に思いを寄せるお玉の家があった無縁坂の北側には、いまはマンションが建ち並んでいます。『雁』のなかでは、岡田も語り手である「僕」も岩崎本邸に入ることはないのですが、小説に登場するコースを散歩しつつ、旧岩崎邸庭園を見るというのも、また一興かもしれません。

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