HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2010/03/27

アーティスト・インタビュー
~ミヒャエル・シャーデ(テノール)

2007年に"宮廷歌手"の称号を与えられ、ウィーン国立歌劇場やメトロポリタン・オペラなど世界的なオペラハウスで愛されているテノールのミヒャエル・シャーデ。

オペラのみならず、コンサート、リサイタル、レコーディングと多忙な日々を送るシャーデ氏に「東京・春・音楽祭」を前にお話をお聞きした。


念願のリサイタルがついに実現!

―シャーデさんはウィーン国立歌劇場の引越し公演を始め、何度か来日されていますが、日本でのリサイタルは初めて、と聞きました。
シャーデ その通りです。「東京・春・音楽祭」で3度目の来日ですが、今回が日本で開く初めてのリサイタルとなります。今までなかなか時間がとれず、実現できなかった日本でのリサイタルを行えることとなり、今から楽しみで仕方ありません。ついに実現する! という感じです。特に日本の聴衆の皆さんの音楽への関心の高さを考えると、とてもやりがいを感じます。

―まずご自身についてうかがいたいのですが、シャーデさんはドイツ系カナダ人とお聞きしました。
シャーデ はい。両親はドイツ人で、私自身はジュネーヴで生まれ、今はウィーンとカナダに住んでいます。私は幼い頃から父の仕事の関係でいろいろな文化に触れ、さらにはドイツ語、英語、フランス語を母国語として育ちました。これは結果的にとても恵まれたことでした。多くの文化や人々に触れることのできた子ども時代は、私の財産のひとつです。音楽は、国や国境を越えるすばらしい存在だと思っています。特に近年、ザルツブルグ・ヤングシンガーズ・プロジェクトの芸術監督を始め、若い人を指導する機会も多くなりましたが、彼らには世界中を旅して、世界中の人々や文化から刺激を受けてほしいと話しています。

―世界的なモーツァルト・テノールとして知られる一方で、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のダーヴィトや、《アラベッラ》のマッテオなどドラマティックな役柄も歌われていますね。
シャーデ 私は自分の声をモーツァルト・ヴォイスと評されることを光栄なことだと考えています。この声が、そしてモーツァルトが、私にとっては全ての基本なのです。あなたの言うところの“ドラマティックな役柄”のときには、もう少し馬力のある歌い方をしているだけのことです。ターボエンジン搭載の車とでもいったところでしょうか。(笑)

―現在、オペラとリサイタルの割合は、それぞれどのくらいになりますか。
シャーデ 私は学生のころからオペラだけではなく、オラトリオやリートを始めとする幅広いレパートリーを歌いたいと考えていました。自分を限定せずにいろいろな作品を歌うことは、それぞれのレパートリーを音楽的に深めてくれます。ですから活動面でも、バランスを保つように心掛けています。現在は60パーセントがオペラ、そしてコンサートとリートが20パーセントずつ、といったところでしょうか。

生き生きとよみがえるアイヒェンドルフの詩

―日本での初リサイタルは《ミヒャエル・シャーデ 歌曲の夕べ〜詩人アイヒェンドルフに寄せて》となりますが、どのようにしてこのプログラムを選ばれたのでしょうか。
シャーデ 今回のプログラムは、私のすばらしき音楽仲間であり、今回のリサイタルで伴奏を務めてくれるマルコム・マルティーノとともに作りました。彼は、ブリン・ターフェルを始めとする世界中のすばらしい歌手と共演を重ねていて、声楽を深く理解しています。また、それぞれの歌手の可能性やレパートリーについて鋭い洞察力を持っている音楽家です。彼は私にとって、そう、従兄弟のような、とても信頼できる存在です。彼はすばらしいアドバイザーでもあるのです。

―そのような伴奏者は、リートにおいては共演者とも言えますね。
シャーデ その通りです。ピアニストはともに音楽を作り上げていく大切な仲間です。音楽家はリスクを怖れず、ギリギリのところにまで自分を追い詰めて表現しなくてはなりません。そうでなければ、聴衆の皆さんに届く、皆さんと分かち合うことのできる音楽は生まれません。そのためにも共演者は大切な存在となります。

―アイヒェンドルフの詩とは、どんなドラマを持っているのでしょうか。
シャーデ アイヒェンドルフの詩は、皆さんをすばらしい想像の世界へと誘ってくれるでしょう。不思議な、それでいてなんとも魅力的な世界がそこにはあります。遠い過去の輝く思い出、魔女、禁じられた地……。アイヒェンドルフにはもうひとつの世界を強く求める心があり、それが多くの作曲家を惹きつけました。ゲーテの詩が安定感のある高級車だとするなら、アイヒェンドルフの詩は高級スポーツカーとでもいったところでしょうか。スリリングで何が起きるかわからない、そんなわくわくするような高揚感も味わっていただけると思います。

―アイヒェンドルフは、ゲーテ同様多くのドイツ人にとって親しみのある詩人なのですか。若い方でもこのような古典は読まれるのですか。
シャーデ ドイツ語圏でアイヒェンドルフはゲーテやシラーと並ぶ代表的な詩人です。確かに彼は18世紀に生まれた詩人ですが、そこに描かれているものは人間そのものです。生と死、愛、届かぬ想い……。詩とは自分が、人間がいったい何者なのかを模索し、語るものです。これは普遍的なテーマだと思いませんか。最近の人は古典に疎いと嘆かれる方がいらっしゃいます。これは文学に限らずクラシック音楽についても言われることです。しかし、クラシック音楽も古典文学も、長い長い月日を越えて、今でも生き生きとしていて、我々の人生に多くのことを示唆してくれます。時の審判を経てなお存在する芸術は、これからも必ず生き残っていくものだと私は信じています。ぜひ、彼の詩を訳詩でかまいませんので、一読していただけたらうれしいですね。私も歌舞伎を見るときは、訳を読んでから行くんですよ。(笑)

―アイヒェンドルフの同じ詩でも、作曲家が異なると、違った世界が見えてきますね。
シャーデ 最も有名な歌曲のひとつと言ってもいい、シューマンの《リーダークラス》の「月の光」は、皆さんもよくご存知だと思います。そして同じ詩にブラームスもまた音楽を書いています。これもまたシューマンに負けないくらい美しいものです。異なる和声言語を持つ偉大な作曲家が、同じ詩からインスピレーションを受けたとき、どのような音楽が生まれるのか、それぞれの「月の光」を感じていただけると思います。

ヴォルフは音楽界のヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

―ヴォルフの歌曲は、なかなか聴く機会がない方も多いかと思いますが。
シャーデ ヴォルフもまたすばらしい歌曲を書いていますが、彼の良いところは、彼が“グッド・クレイジー”だったことです。私は、ヴォルフのことを音楽の世界のヴィンセント・ヴァン・ゴッホと呼ぶことがあります。ゴッホの絵画は近くで見ると、考えられないような手法で書かれていることがわかります。でも、ひとたび離れて絵画全体を見ると、すばらしいもので、絵に対する知識のない人でも楽しむことができます。ヴォルフの歌曲も同じです。和声からみると考えられないような手法を用いながら、作品として聞くと、とても面白くて楽しい。本当にエンターテインメントの要素が溢れる作品を彼は書いています。実は私のリサイタルで最後に皆さんがいちばん大きな拍手を送ってくださるのが、ヴォルフなのですよ。

―今回はヴォルフの他に3人の作曲家の作品が取り上げられていますね。
シャーデ はい。面白いことに3人とも、それぞれ困難に直面していた作曲家たちです。なかでもメンデルスゾーンはアイヒェンドルフの詩が大好きでした。彼は自分に残されている時間が少ないことを、心の深いところで理解していたのではないかと思えてなりません。そしてそれゆえに、アイヒェンドルフのもうひとつの世界に強く心惹かれたのではないでしょうか。また、好きになってはいけない人を好きになってしまったブラームス。彼もまたそんなところでアイヒェンドルフの詩に共感したのでしょう。シューマンは常に静穏な世界を求めていました。シューマンにとってアイヒェンドルフの描く、現実の世界とは違う、もう一つの世界はとても魅力的なものであり、憧れでもあったのでしょう。ときどきリートを地味だと考える人がいるようですが、そんな人はシューマンのリートをぜひ聴いてみてください。ひとつも地味ではありませんよ!

―リサイタルがとても楽しみになってきました。最後に日本の聴衆にメッセージをお願いします。
シャーデ 作曲家の言葉は、その音楽を通して聞こえてきます。でも、聞こえてくるのが音楽だけではダメで、そこにはドラマも聞こえてこなくてはなりません。そんなドラマを日本の皆さんにも、ぜひ楽しんでいただきたいと思います。


(プロフィール)
◆テノール:ミヒャエル・シャーデ Michael Schade
ドイツ系カナダ人。世界でもトップクラスのモーツァルト・テノール。ザルツブルク音楽祭に15年連続出演し、2007年1月オーストリア政府からカナダ人初の「宮廷歌手」の称号を授与された。ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン・オペラ、ハンブルク国立歌劇場、ミラノ・スカラ座等の舞台に立つ一方、リサイタル、コンサート、レコーディングと多彩な活躍を続ける。アーノンクール、ムーティ、アバド、ラトルといった一流の指揮者からも絶大な信頼を得ている。

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