HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2010/03/27

ニューヨークのリッカルド・ムーティを聴いて

文・林田直樹(音楽ジャーナリスト)

スケールが大きいムーティの音楽

 3月上旬、ニューヨークでリッカルド・ムーティ指揮による2つの演奏を聴いた。ひとつは、メトロポリタン・オペラに初登場となるヴェルディの歌劇《アッティラ》(ピエール・アウディ新演出)を3月6日に、そしてもうひとつは、ニューヨーク・フィルの定期演奏会を3月8日に。

 まず《アッティラ》は、骨太の筆づかいで力強く旋律を歌い上げるムーティのタクトに、オーケストラも合唱も、そして聴衆も完全に魅了され尽くしていた。初めての客演であるにもかかわらず、まぎれもなくムーティ・カラーの音楽が鳴っていた。

 ムーティの音楽には、少々のことでは微動だにしない、どっしりとした安定感がある。一見クールだが、そこにはマグマのごとき情熱が秘められている。このエネルギーはいつ解放されるのか? 静かなる男ムーティは、少々のことではアッチェルランドなんかしない。まだかまだか……。抑制の末、聴いているこちら側がじらされてたまらなくなったとき、ムーティのタクトは円形を描きながら、オーケストラに対して情熱的に「ある方向」を指し示す。そうなると、オケも聴衆も、気持ちは一心同体である。音楽はどくんどくんと脈動しながら、華麗な終結部に向かって、ムーティのペースに乗って、強烈なクライマックスを築き上げていく。これがムーティらしさだと思う。

 楽員や合唱団員にとって初顔合わせとなったムーティの印象は、はたしていかなるものだったのか。オケの主要メンバーやコーラスマスターに筆者が取材した話を総合すると、ムーティのヴェルディ解釈が決定的に“違う”のは、非常に長いフレーズで旋律のラインをとらえるところにあるらしい。細部で切りすぎずに、音楽を大きなスケールで把握する。そして先述したような、いざというとき「方向」を指し示すときの決断力。このあたりが、ムーティの音楽を男性的だと感じるひとつの大きな理由かもしれない。

知られざる名曲を開拓する

 ニューヨーク・フィル定期演奏会(エイヴリー・フィッシャー・ホール)も素晴らしいコンサートであった。プログラムは、ピアニストのアンドラーシュ・シフをソロに迎えたブラームス《ピアノ協奏曲第1番 ニ短調》、そしてヒンデミット《交響曲 変ホ調》。

 ブラームスは、ピアノ協奏曲とは言うものの、実際はとてもシンフォニックな作品。ここでムーティとニューヨーク・フィルは、当然ながら「伴奏」とは次元の違う、ガツンと手応えのあるダイナミックな演奏を繰り広げ、スケール感ゆたかな世界を構築してみせた。

 しかし、なんと言っても素晴らしかったのはヒンデミット《交響曲 変ホ調》である。さほど知られているとは言いがたいこの作品は、《画家マチス》以上にエネルギッシュかつ大胆な力にあふれた音楽。

 ムーティの最大の功績に「知られざる名曲の開拓」ということがあって、初期ヴェルディもそのひとつだし、ケルビーニやスポンティーニ、レスピーギ、マルトゥッチなど、未知のレパートリーを紹介することに、長年心を砕いてきた。今回のニューヨーク登場に際して、ムーティがヒンデミットを取り上げたのには理由がある。

 《交響曲 変ホ調》は、ヒンデミットのアメリカ亡命時代の最大の労作で、1941年11月のミネアポリスでの初演後まもない12月に、ニューヨーク・フィルが演奏している。しかし1967年にバーンスタイン指揮で演奏されて以来、ニューヨーク・フィルでは取り上げられていなかった。その作品に改めて光を当てる格好となったのが、今回の演奏である。つまり必然性のあるプログラミングなのだ。

 端的に言えばムーティの解釈は、ヒンデミットのこの交響曲が、ベートーヴェン的な力強さと確固とした構成に加え、ギッチリと緻密に書き込まれたオーケストレーションの面でも超一流であることを証明するものであった。最後の雄大なクライマックスが終結すると、エイヴリー・フィッシャー・ホールは総立ちの熱狂となった。いわゆるポピュラーな名曲ではなく、ヒンデミットの知られざる音楽で、ここまでニューヨークの聴衆を夢中にさせた――。これはとても大きなことである。

 メトロポリタン・オペラでの《アッティラ》終演後、私はムーティの楽屋を訪ね、握手しながら「日本での《カルミナ・ブラーナ》を楽しみにしていますよ」と言うと、嬉しそうに「ありがとう」と笑顔を見せた。ムーティが気持ちを少し東京に向けたのを感じた。

 ちなみにその場にはウィーンからの客人の姿があった。ウィーン国立歌劇場総監督イオアン・ホーレンダーである。世界からムーティを求める声が絶えることはない。そんな多忙なムーティが、「東京・春・音楽祭」で春をテーマにした《カルミナ・ブラーナ》にどのような気持ちを込め、日本の演奏家たちとともに、私たちに何を伝えようとするのかが、今から楽しみである。

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