HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2010/03/11

歩いてみよう、上野界隈
第ニ回「旧東京音楽学校奏楽堂」

コンサートの日、少し早めに家を出て、春の上野を散策してみると、新たな出会いがあるかも----。
情緒あふれる上野とその近隣の街をたずねる本コラム。今回は「旧東京音楽学校奏楽堂」を紹介します。

文・網倉俊旨


  • 旧東京音楽学校奏楽堂

上野の杜に響いた日本初のオペラ

「楽堂の入口を這入ると、霞に酔うた人のようにぽうっとした」と、夏目漱石の『野分』にも描かれている旧東京音楽学校奏楽堂は、明治23(1890)年に完成した日本最古のコンサートホールです。
 漱石の弟子である寺田寅彦は『夏目漱石先生の追憶』のなかで、「上野の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた」と記していますが、昭和4(1929)年に日比谷公会堂ができるまで、日本ではクラシック音楽の生演奏をまともに聴ける機会は、東京音楽学校奏楽堂での演奏会くらいでした。
 寅彦は、ここで漱石と演奏会を聴いたときのエピソードを次のように綴っています。
「ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウグウというかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった」
 奏楽堂で本格的な定期演奏会がはじまったのは、明治31(1898)年。第1回目の演奏会では、当時、東京音楽学校の研究科に在籍していた瀧廉太郎がバッハの曲をピアノで演奏しました。奏楽堂の玄関脇には、彫刻家・朝倉文夫の手による瀧の銅像があります。大分県の竹田高等小学校で瀧の後輩にあたり、瀧が通った上野の音楽学校の隣の美術学校彫刻科で学んだ朝倉は、瀧の没後、少年時代の思い出をもとにこの像を彫んだといいます。
 そして、明治36(1903)年7月23日、日本人による初のオペラがここで上演されました。演目はグルックの《オルフェオとエウリディーチェ》。当時はまだ本格的なオーケストラはなかったので、バックはピアノ伴奏だけだったといいますが、このときエウリディーチェを歌ったソプラノこそ、後に日本初の世界的プリマドンナとなる三浦環(当時は柴田環)です。
 プッチーニの《蝶々夫人》の「蝶々さん」役を得意とし、メトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である三浦環は、東京音楽学校で教鞭をとり、教え子のなかには日本近代音楽の育ての親といわれる山田耕筰もいました。東京音楽学校の奏楽堂は、日本における西洋音楽黎明期のまさに檜舞台だったのです。
 昭和62(1987)年、上野公園内に移築保存された旧東京音楽学校奏楽堂は、いまでも現役のコンサート会場として利用されています。また、演奏会のないときでも建物内は公開されおり、1階の常設展示会場では、三浦環がプッチーニと一緒に写っている貴重な写真も見ることができます。

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