HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2016/03/16

音楽祭の自分だけの「目玉」を探して楽しもう。
~世界に誇る東京・春・音楽祭の「ミュージアム・コンサート」

文・平末 広(モーストリー・クラシック副編集長)

音楽祭で何を聴くかは、自分の感性で選びたい

 東京の春を告げる「東京・春・音楽祭」が開幕した。このところの天候不順で、「寒の戻り」が凍えた東京に「春が訪れ、桜(はな)がひらいて、音楽が始まる、上野の森」というモットーが春を連れてきたのだろう。

 ご存知のとおり、この音楽祭は「東京のオペラの森」として始まったこともあって、伝統と言っても差し支えないほどの財産を積み重ねてきたオペラ、今年も豪華出演陣を迎えてのワーグナー《ジークフリート》、また音楽祭の「首席客演」的存在の巨匠ムーティ指揮の「ヴェルディ、ボイトの夕べ」や宗教合唱付の大曲を演奏する「合唱の芸術シリーズ」が目玉ではあることは間違いない。 「はある」という引っかかる言い方をしたのは、他に「目玉がある」からだ。実はここにこそ「優れた音楽祭」である証がある。ザルツブルク音楽祭でも、ルツェルン音楽祭でもメインはオペラや祝祭管弦楽団だが、それは主催者が最もお金をかけ、広報が音楽祭に人を呼ぶべく掲げている「都合」であって、その音楽祭の全容を表したものでは、必ずしもないということだ。

 一例を挙げると、ザルツブルク音楽祭でもう、20年ほど前になるが、朝11時に祝祭大劇場のウィーン・フィルの演奏会でなく、同時刻に行われたシャーンドル・ヴェーグ指揮カメラータ・アカデミカ・ザルツブルクの演奏会を悩むことなく選んだ。いまになると、その価値が大きいことがわかる。

 ただ、1992年に同音楽祭を初めて訪問した時には、オペラ、ウィーン・フィル、ラトル/バーミンガム市交響楽団の同音楽祭デビューを聴いた。音楽祭の品揃えの裏が読めなかったからだ。もちろん、無理やり裏を読む必要が、世界的な音楽祭の所以は、そういったものを揃えている。

 ルツェルン音楽祭でのホリガー夫妻による現代音楽プロも、午前中の教会での開催にもかかわらず、満員で祝祭管の演奏会に劣らない熱気に満ちていた。

細部の充実が「東京・春・音楽祭」が世界的なものに成長した証

 東京・春・音楽祭に対して「本当に世界的な音楽祭になってきたな」と思うのは、「本当の多様性」をその中にはらみ、聴衆が自らの「宝」となる演奏会を見つけだせるとことができることからだ。その中で、国際的な音楽祭にない素晴らしい演奏会が「ミュージアム・コンサート」だ。

 すでに、今年で31回を数える「東博でバッハ」は、東京国立博物館の石造りの重厚な空間でバッハを聴く。1872年にできた東京国立博物館は、ヨーロッパの宮殿を模した(ヨーロッパでは専制政治が終わり宮殿だった)建物が、美・博物館となることが多いので、その文化をそのまま取り入れた明治政府の文化政策が、偶然にもバッハ時代の空間を引き寄せることに成功し、まるでタイムスリップしたような「典雅な」バロック時代の空間でバッハを楽しめる。その魅力に多くの人が気付いたのだろう。

美術と音楽のシナジー効果での体験を期待「ミュージアム・コンサート」

 さらに、美術と音楽を共にすることで、立体的な芸術体験を試みることができるのが、東京都美術館と国立西洋美術館の「ミュージアム・コンサート」だろう。

東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2015-
「グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家」
記念コンサート vol.2~江崎浩司(リコーダー)
国立西洋美術館 講堂にて

 現代のように、美術、音楽、演劇、ロック、伝統芸能、映画など、芸術が各分野に細かくセグメントされるのは、日本でも1980年代終盤のいわゆる「不毛の時代」になってからだ。各分野の専門性が高くなり、レベルが上がってきたにも関わらず「不毛」だと言われるのは、各分野が互いに影響してシナジー効果を発揮することがないからだ。

 そういったことが行われていた1980年代の西武美術館「芸術と革命」展での「ミュージック・イン・ミュージアム」では、クルチューヌィフ作で美術をマレーヴィチが担当したロシア未来派の舞台作品「太陽の征服」が上演、マチューシン作曲の音楽は残っておらず、一柳慧がピアノ連弾用に作曲し演奏した。そこでは展覧会だけで感じられない、描かれた絵画の背景を含んだ息遣いなどが、描かれた時代の空気を帯びた体験として迫ってきた。いまでもあの時の興奮は忘れられない。

音楽の流れと絵画の主題を重ね合わせる「ボッティチェリ展」の演奏会

 東京都美術館「ボッティチェリ展」、国立西洋美術館「カラヴァッジョ展」の会場でのミュージアム・コンサートでは、5つの演奏会が行われる。

 ボッティチェリ(1445-1510)が活動したルネサンス期のイタリアでは、2つの異なった音楽文化が存在した。宮廷では、フランドル地方の音楽家を抱え、宗教音楽は、デュファイ、ジョスカン、オケゲムたちの作品が演奏された。

 その一方、イタリア人音楽家が得意とした世俗歌曲でも、フランドル人の作曲家は文学、芸術的にレベル高い要素を加えた世俗音楽、初期のマドリガーレを作り上げた。

ヴォーカル・アンサンブル カペラ

 3月19日のヴォーカル・アンサンブル・カペラの演奏会では、宮廷お抱えのデュファイ、ジョスカンなどの宗教音楽。31日には、初期マドリガルの作曲家フィリップ・ヴェルドロなどの作品とジョスカンの宗教曲などが演奏され、この時代の音楽の2つの流れを聴かせてくれる。さらにその間の27日には、オランダを拠点に古楽から現代作品まで幅広いレパートリーで世界的に活躍する長澤真澄が、ボッティチェリからインスピレーションを受けたイタリア・ルネサンスから、現代までを繋ぐ意欲的なプログラムが並んでいる。いずれも、ボッティチェリの時代の芸術空間を紡ぎ出してくれると同時に、絵画の題材の取り方などが音楽とその歌詞(文学)との参照によって、新たに浮かあがってくる新境地に導いてくれるだろう。

新たな創造者カラヴァッジョと同時代の作曲家ジェズアルドを重ねる

 その後のイタリア・ルネサンスの芸術に萌芽を得て、バロック芸術へ時代的には流れてゆくが、カラヴァッジョ(1571-1610)は、イタリア・バロックを代表する画家で、ルネサンス絵画からバロック絵画への移行を促した鮮烈な表現力が、20世紀になって再評価された。

アントネッロ

 その「カラヴァッジョ展」記念コンサートの3月29日のアントネッロの演奏会では、ジェズアルド(1566-1613)の作品が演奏される。半音階を大胆に使った革新的な作品を発表、死後、忘れられていたが、20世紀にストラヴィンスキーやシュニトケなどが評価した作曲家だ。この2人の共通点は、芸術の改革者ということに加えて、殺人や刑務所にも入ったといった無頼漢だったことで、褒められることではないが、時代への反抗心が新たなものを生んだ例は歴史の中で数多くある。その点に留意すると、その時代と人間への興味が加味されていくに違いない。

坂本龍右

 28日の坂本龍右のリュートのコンサートでは、「リュートを弾く若者」、「愛の勝利」などに描かれたリュートが実際にどんな音、音楽を奏でていたかがわかることで、描かれた背景など、絵を見ているだけでは味わえない楽しみを立体的に味わえるだろう。

 国立西洋美術館の今回の展覧会に関わった研究員から直接話を聞けるというのも貴重な機会。

 世界の有名音楽祭でも、こういったコンサートに遭遇するチャンスは稀だ。よって、五感を研ぎ澄まして「東京・春・音楽祭」を味わうことをおすすめする。




~ミュージアム・コンサート~

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