HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2015/12/10

ヘルデンテノール=ジークフリート歌いとは?
~アンドレアス・シャーガーへの期待

文・城所孝吉(音楽評論家・ベルリン在住)

ワーグナーが作り出した"ヘルデンテノール"

 ワーグナー《ジークフリート》の題名役は、ヘルデンテノールと呼ばれる歌い手によって歌われる。ヘルデンとは、ドイツ語のHeld(英雄)から来る言葉で、端的には「英雄的でドラマティックなテノール」の意である。実はこの区分自体、ワーグナー・オペラの登場によって生まれた。それまでにも劇的なテノール役は存在したが、《フィデリオ》のフロレスタンや《ノルマ》のポリオーネは、せいぜい30~50人のオケで歌われたに過ぎない。対して100人以上の大オーケストラを突き抜けて歌う英雄役は、ワーグナーが作り出した声種なのである。

 その代表が、ジークフリート、トリスタン、タンホイザー、ジークムント、パルジファル、ローエングリン、ヴァルター等。イメージとしては、金髪碧眼で逞しい美丈夫といったところである(後述するように、それに見合う歌手が少ないのだが......)。なかでもジークフリート、トリスタン、タンホイザーは重量級だが、それは中音域を多く歌うため。国際的にも絶対数が少なく、一流のオペラハウスでは、同じ人が持ち回りで歌っている。

 《ジークフリート》は、《ワルキューレ》の後に作曲が開始されたものの、長期間中断され、《トリスタンとイゾルデ》、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の後で完成された。それゆえ第2幕と第3幕の間に、様式上の差がある。前2幕がリズミカルでドライな要素を持っているのに対し、終幕は豊かな響きと長い呼吸を特徴とする。ジークフリート役も同じで、前半では言葉を中心としたデクラメーション、後半では歌謡的なレガートが要求される(ちなみに後続の《神々の黄昏》では、後者の歌唱スタイルが維持されている)。

ジークフリートは誤解されている?

 ジークフリートという役は、実は誤解されているのではないだろうか。一般的には、無骨な英雄役とされているが、実際には少年と呼べるほどまっさらな若者。ジークリンデの死後、ミーメによって育てられ、自らの出自も外の世界も知らない。ましてや自分がヴォータンとアルベリヒの闘争から生まれ、神々の命運を担っているなどとは、思いもよらない。出来上がった人格ではなく、何も知らないがゆえに怖いものを知らない、といった役どころである。口の悪いワーグナー識者は、(高貴で真に英雄的なジークムントに比して)「野人」などと呼んだりするが、ワーグナーが求めたのは、「無知ゆえの自由さ、強さ」であり、「無垢な愚か者」パルジファルを先取りする性格を持っている。

 《ジークフリート》では、普通第1幕幕切れの〈鍛冶屋の歌〉(ハンマーで鉄を打ちながら歌う)が聴きどころとされる。しかしここは、演劇的面白さを見せる個所で、音楽的なハイライトではない。むしろ重要なのは、第2幕で見知らぬ母親に想いを馳せる場面だろう。何も知らない「英雄」が、子供のように純真に「僕のお母さんはどんな人?」と自問。往年のヘルデンテノール、ルネ・コロは、ここで胸を締め付けるようなピュアな語りを聴かせ、観客を涙させた。同様に注目すべきは、第3幕後半、ブリュンヒルデとの出会いである。初めて会った女性への恐れと好奇心、感激を複合的な心理で表現することが求められる。その後の彼女との二重唱は、豊かな歌に溢れ、全曲の頂点となっている。

ニュー・スター、アンドレアス・シャーガー

アンドレアス・シャーガー

 今日、このジークフリートを歌って活躍するテノールは、上述した通り極めて少数である。代表的なのが、アメリカ人のステファン・グールド、カナダ人のランス・ライアン、ドイツ人のシュテファン・フィンケ。「代表的」と書くと他にも人材がいそうだが、実際には彼らと、今回、東京・春・音楽祭で歌うアンドレアス・シャーガーしか(一線級では)存在しない。そしてこのシャーガーこそが、ダニエル・バレンボイム、マレク・ヤノフスキといった大指揮者が好んで重用するニュー・スターなのである。

 シャーガーは、1971年生まれのオーストリア人。非常に若い歌手ではないが、それは彼が、以前、リリック・テノールとして活動していたからである。1999年に《コジ・ファン・トゥッテ》フェッランドでデビューし、当初は地方でモーツァルトやオペレッタを歌っていた。2009年にエアル・チロル音楽祭でフロレスタンを歌い、ヘルデンテノールに転向。その後、《さまよえるオランダ人》エーリック、《魔弾の射手》マックスとレパートリーを拡大し、2012年にハレで初めて《ジークフリート》を歌った。しかしこの時点では、国際的には無名だったと言えるだろう。しかしチャンスは翌年4月、バレンボイム指揮ベルリン国立歌劇場の《ジークフリート》でやって来た。予定されていたランス・ライアンが、公演の開始時間を間違えたのである。

 この日、上演は16時に開始されることになっていた。しかし15時40分になっても、ライアンが劇場に現れない。担当者が本人に電話すると、18時と勘違いしており、出頭には1時間以上掛かることが分かった。皆が蒼白となったが、偶然にも劇場内で、翌週の《神々の黄昏》でデビューすることになっていたシャーガーが稽古していた。そしてバレンボイムの鶴のひと声で、彼に白羽の矢が立ったのである。

 10分後の16時、シャーガーは本当に舞台袖から第1幕を歌った(演技は演出助手が担当)。《ジークフリート》の第1幕は、山あり谷ありの長大なパートで、途方もないスタミナを必要とする。しかし彼は、それを「健闘」以上のレベルで歌い切った。もちろん聴衆は大喝采である。第2幕からはライアンが戻ったが、後日シャーガーは「緊張する暇もなかった」と語っている。ちなみに彼は同日、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルの《魔笛》(第1の僧侶)でも歌うことになっており、カーテンコール後にはフィルハーモニーに直行したという。

ヘルデンテノールに合致する"イメージ"

 この後、彼のキャリアは急展開する。翌月には、《神々の黄昏》でミラノ・スカラ座にデビューし、7月のベルリン国立歌劇場ロンドン公演でも同じ役を歌った。そして2015年3月には、同歌劇場の《パルジファル》新演出で、題名役に抜擢された(すべてバレンボイム指揮)。フランツ・ヴェルザー=メスト&クリーヴランド管では、《ダフネ》のアポロを歌い(同年5月)、2016年春には、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮の《神々の黄昏》でマリインスキー劇場にも初登場する。それに続くのが、東京・春・音楽祭の《ジークフリート》である。

 これは、実に驚くべき出世ぶりである(彼は、《ジークフリート》代演の時期でさえ、地方でオペレッタを歌っていた!)。それにしても、なぜ、シャーガーは突然求められる存在になったのだろうか。それは端的に言って、彼がヘルデンテノールに合致する「イメージ」を持っているからである。単に声があり、優れた音楽性で歌えるだけではない。容姿と雰囲気が、ジークフリートをはじめとする英雄役に、ドンピシャリなのである。

 実はヘルデンテノールは、重量級の役を歌うだけあって、姿も同様というタイプが多い。声が成熟してから取り組むので、若々しい雰囲気を持った人が少ないのである。これに対しシャーガーは、写真で分かる通り、ブロンドで痩身。颯爽とした感じがあり、ヒーローにふさわしい品格も備えている。「ジークフリートはこうであってほしい」という観客の期待が、満たされる歌手なのである。こんなテノールは、ペーター・ホフマン、ジークフリート・イェルザレム以来、存在しなかった(もちろんヨナス・カウフマンもいるが、彼はより抒情的なスピント・テノールだ)。名歌手たちの引退以降、人々が待ち望んでいたのが、シャーガーのようなテノールなのである。

 実を言うと、筆者は彼の歌を、まだ舞台で聴いたことがない。それゆえ実際の響きや声量を、説明することができない。しかし録音で聴く限り、バリトン系のイェルザレムの声を少し高くし、よりスリムにした感じである。驚くべきことに彼は、2013年11月、チョン・ミョンフン&東フィルの《トリスタンとイゾルデ》(演奏会形式)で、すでに東京にデビューしている。それゆえ彼の舞台を体験したことのある観客も多いのではないだろうか。しかし何といっても、現在の彼の当たり役は、ジークフリートである。キャリアに花が咲き、自信を得たシャーガーが聴かせる歌は、2年前よりもさらに成長していることだろう。それをヨーロッパと同時に体験できる日本の聴衆は、たいへん幸運だと思う。



~アンドレアス・シャーガー(テノール)出演公演~


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