HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2015/02/13

【連載vol.1】星降る夜に〜「東京春祭 歌曲シリーズ」の魅力

文・加藤浩子(音楽評論家)

 星降る夜。

 心にひびく歌曲の夕べを体験すると、その言葉が思い浮かぶ。すぐれた歌手が、親密な空間で、テキストと音楽が手を取り合う小宇宙を媒介してくれる時、無限の夜空にばらまかれた星のなかに佇んでいる気持ちになるからだ。

 その原風景は、風光明媚なオーストリアの山岳地帯で開催され、歌曲をメインにした音楽祭としてつとに知られる「シューベルティアーデ音楽祭」で体験した夜だ。アルプスを望む緑の中に建つ山小屋のような会場から一歩外へ出た時、まさに星降る夜に取り囲まれた。その時、シューベルトゆかりの地というわけでもないのに、この場所が音楽祭の地に選ばれた理由が理解できた気がした。リートがもたらしてくれる穏やかな夢見心地に、星空と澄んだ空気ほどふさわしいものはないように思われたのだ。

 世界に名だたる音楽都市東京で、星降る夜を連想させてくれる歌曲のための空間は、筆者にとっては東京文化会館の小ホールをおいて他にない。石のレリーフと銀色の反響板に囲まれた、夜を思わせる落ち着いた空間。650席ほどの座席は、半円形の劇場のように三方から舞台を取り囲み、アーティストとの交流を後押しする。この親密さこそ、歌曲のリサイタルには欠かせない。よくも悪くも「声」が要求されるオペラの舞台で周囲を圧して燦然と輝く歌手たちが太陽なら、テキストと音楽が紡ぎ出す小さな物語を伝える歌曲リサイタルでの彼らは、手をさしのべれば届きそうな星なのだ。その星の瞬きや息づかいを共有できること。それが、歌曲の夕べの醍醐味だろう。

2013年 クラウス・フローリアン・フォークト©堀田力丸
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 2009年に始まった東京・春・音楽祭の歌曲シリーズは、さまざまな輝きの星たちを網羅している。その多彩なこと、時を得ていることは驚くばかりだ。白井光子とハルトムート・ヘルのコンビや、イアン・ボストリッジのような、この世界の押しも押されぬ実力者もいれば、マルリス・ペーターゼンやアドリアン・エレートのように、世界一流の歌劇場でひっぱりだこのスターもいる。なかでも、2013年に登場したクラウス・フローリアン・フォークトは圧巻だった。世界有数のワーグナー・テノールであり、同年の春祭公演で、ワーグナーの生誕200年記念公演となった《ニュルンベルクのマイスタージンガー》でも感動的な歌唱を披露した彼が、一夜だけ《美しき水車小屋の娘》を披露するという、夢のような企画だったからだ。ワーグナー・テノールといっても、剛毅なタイプのいわゆるヘルデン・テノールとはちょっと異なり、モーツァルトを得意とするリリカルなテノールの端正さと甘さ、美感を備えたフォークトが歌う、青春哀歌の切なさ美しさといったら!あの夜の彼は、まさに夜空に輝く星だった。日を接して、ひとりの大歌手の「太陽」と「星」のエッセンスを体験できたことは、東京・春・音楽祭の枠内だから可能なことだったといえるだろう。

 この年には、やはりワーグナーを得意とするオーストリアのバリトン、アドリアン・エレートも、《マイスタージンガー》のベックメッサー役に加えて歌曲の夕べに登場し、芸達者ぶりを披露してくれたことも記憶に新しい。

2014年 マルリス・ペーターゼン©堀田力丸
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 2009年の記念すべき第1回に、現在のオペラ界で一番ホットな声種であるカウンタテノールの大スター、マックス・エマニュエル・チェンチッチが招かれたことも快挙だったのではないだろうか。歌曲というよりオペラアリアの夕べだったけれど、声楽アンサンブルも交えた贅沢な布陣で、モーツァルトからベルカントに至るプログラムも含めて、「今」の声楽界の潮流を余すところなく伝えてくれたエキサイティングな一夜だった。

 今年の東京・春・音楽祭の歌曲シリーズも、この音楽祭ならではの魅力的な顔ぶれと内容が予定されている。音楽祭のメイン演目である《ワルキューレ》の主役たちが、その星の貌を見せてくれる一期一会の機会なのだ。詳しくは、次回。


〜公演情報〜
東京春祭 歌曲シリーズ
vol.15 ロバート・ディーン・スミス(テノール)
vol.16 エリーザベト・クールマン(メゾ・ソプラノ)



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