HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2015/01/26

法外な作曲家の法外な作品〜ベルリオーズ《レクイエム》

 clm_0125.jpg 文・許 光俊(音楽評論家、慶應義塾大学教授)

激動の時代、波乱の生涯

 エクトール・ベルリオーズ(1803-69)は何事につけ法外な作曲家だった。フランス王政が倒されたのち、市民社会が形成される試行錯誤の時代に生まれ、血の気の多い人生を送った。社会の大変動期にふさわしい風雲児と言ってよかろう。熱血漢で、想像力旺盛、攻撃的で、出世欲や功名心たっぷり、こんな人物が生きるには最適の時代だったのかもしれない。

 彼が書いた一番の有名曲は20代に完成された《幻想交響曲》だ。ベルリオーズは当時ヨーロッパを席巻したシェイクスピア女優を一目見て恋に落ちた。だが、当然のことながら有名女優が無名作曲家を相手にするはずがない。ベルリオーズの情熱はまさしくストーカー的で、執拗かつ激しいアタックが続けられたが、彼が燃え上がれば燃え上がるほど女は警戒した。当然の話だ。

 ならばと、ベルリオーズは彼女に恋する男、つまり自分を主人公に見立てた交響曲を書きあげてコンサートを開いた。話題になった。虚栄心の強い女優はついに作曲家を認め、やがてふたりは結婚することになる・・・。

 この有名なエピソードに端的に表れているように、ベルリオーズはいったんこれと思い定めると、とことん突っ走る人間だった。普通の意味での常識や抑制や趣味のよさとは無縁だった。熱意も愛も憎しみも度を越していた。分厚い自伝を書いているが、そこには恋のあまり理性を失い、憎い人々を皆殺しにしようと追いかける様子まで記されている。成功するために旧弊な音楽院と徹底的にやりあったことが書いてある。誇張があるのかどうか、たぶんあるだろう、しかしその誇張も含めてのベルリオーズの人生だった。

社会的な死を悼むための巨大な音楽

 そんな作曲家だから、《レクイエム》を書いても、私たちが知る他の有名作とは大いに違ったものになった。《レクイエム》といえば、モーツァルト、フォーレ、ヴェルディ、そして例外的にドイツ語によるがブラームスあたりの作品が日本でも親しまれている。それらに比べれば、ベルリオーズ作品がステージで奏される頻度は低い。アマチュア合唱団もあまり食指を動かさないようだ。

 それもそのはずである。そもそもこの曲の演奏にはオーケストラと合唱で約400人という法外な人数の演奏家が必要だと楽譜に記されている。作曲者はこの楽器は何人と細かな指定をしたのだ。その結果、オーケストラの弦楽器奏者の数は、通常のほぼ倍である。しかも、大量の金管楽器がいくつかのグループに分けられてホールの中のあちこちに配置される。手間もお金もかかる。常識など意に介さないベルリオーズだからこそ書けたような誇大妄想的な音楽である。

 あまり大規模なので、適宜縮小して演奏されることも多い。考えてもみてください、普通のコンサートホールの収容人数は2000人から2500人程度。この聴衆に対して演奏家が400人では確かに多すぎるだろう。しかも、ベルリオーズは、これ以上の大人数で演奏することすら想定していたのだった。まったく常人には及びもつかぬ巨大志向だ。

 だが、人の死を歌う作品が、なぜこれほどまでに巨大でなければならないのか。たとえばフォーレの《レクイエム》のように悲しみがじわじわと広がるような音楽を知っている私たちはそう考える。ああいうふうに親密な感じの、決して大言壮語ではない悲哀がこもっているのが《レクイエム》というものではないのか。

 ところが、ベルリオーズの《レクイエム》はああいう個人的な感情とは別次元で死を扱った音楽なのだ。人間の死には、個人的な側面と社会的な側面がある。私たちは、個人が大事にされる状況にいるから、《レクイエム》が個人的な音楽であるべきだと思い込んでいる。が、いったん何かの事件が起きれば、たったひとりの死でも、いきなり社会的な意味合いを帯びる。ベルリオーズの《レクイエム》は、そういう社会的な死を悼むための音楽なのだ。言い換えれば、墓地にひっそりと置かれた墓石ではなく、ヨーロッパではそこかしこで目立つ歴史的モニュメントのような音楽なのだ。

 あるとき、ベルリオーズは内務大臣から打診されたのだった。7月革命やルイ・フィリップ王暗殺未遂事件で死んだ人々のためのミサ曲を書かないかと。つまり、民主主義国家ができあがっていくという未曽有の歴史における犠牲者のために。

力強い筆致で空間を埋め尽くす壮大な壁画

 演奏会場として予定されていたのは、パリのアンヴァリッド。日本語では廃兵院と訳されている。その名の通り、けがをした兵士を収容する場所だ。セーヌ左岸(南側)に金色の屋根を輝かせてひときわ目立つ建築物。ナポレオンの遺骸が置かれているのもここである。つまり、この《レクイエム》は、清浄な教会の中で心を澄ませて聴く音楽ではない。豪華な演奏会場で美を堪能する音楽でもない。公共の大きな空間の中で執り行われる、歴史的な象徴性を帯びた儀式のための音楽なのだ。

 ベルリオーズはそのような場所で最大限の効果を得るために工夫した。たとえば、金管楽器が四方八方からすさまじい音響を聴衆に浴びせかけるとか。あえて古風で荘重なグレゴリオ聖歌風の旋法が用いられているとか。うねるような息の長い流れとか。急にではなくだんだんに盛り上がるような強弱とか。中年にさしかかったベルリオーズは、大作曲家として認められたかった。そのために力を尽くした。

 特殊な機会性と、作曲家の野心が、この《レクイエム》をきわめて独特なものにした。いわば、ベルリオーズが作ろうとしたのは、精巧な細密画ではなかった。力強い筆致で空間を埋め尽くす壮大な壁画だったのだ。

 だから、これは自宅や電車の中ではなく、しかるべき公共の空間で聴いてこそ意味がわかる作品なのである。そうした場所で聴けば、作曲家の野望や計算は案外あっさりと腑に落ちる音楽である。

ロマンティックな音楽家

 音楽家は普通の人間ではない。

 普通の人間はあとさきを考えるものだ。しかも賢いとされる人ほどそういうものだ。けれど、音楽家はその瞬間に完全燃焼を果たそうとする。現在が、過去からも未来からも切り離されて、激しく輝く。その意味で、時間は止まる。

 やりたいことで頭がいっぱいである。夢に熱中する。それが成功すればベルリオーズやワーグナーのように歴史に名が残るが、失敗すればただの敗残者。芸術とは人生を賭けたばくちだが、そもそも人生を賭けているという意識すら希薄なのが芸術家。

 つまり、音楽家は大なり小なりベルリオーズ的だ。誇大妄想的で、自己中心的だ。そうでなければ、自分が信じる美の実現などおぼつかない。その意味で、音楽家は本質的にロマンティックなのであるし、そうでなければならない。ロマンティックでない音楽家は、偽物である。

 大野和士は、およそ時代離れしていると思わされるほどロマンティックな人間である。現代作品を積極的に演奏し、社会問題にも関心を示すが、本質的には際立ってロマンティックである。だから、彼は幅広いレパートリーを持っているけれど、実はもっとも得意なのはワーグナーとマーラーといったロマン派の音楽である。要するにエクスタシーと死が交差するような音楽、自我が世界を飲み込もうとする音楽だ。

 その彼が、フランスのロマン主義の代表者の、思念の途方のなさをよく表す《レクイエム》を振る。



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