HARUSAI JOURNAL春祭ジャーナル

春祭ジャーナル 2012/11/27

ニュルンベルクの《意志の勝利》と《マイスタージンガー》

円熟期のワーグナーが残した《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は、傑作喜劇として不動の人気を誇っているが、その一方で"ナチズムとの結びつきが強い作品"というネガティブなイメージも拭いきれないでいる。
本稿では、一般に流布しているそうしたイメージが、どこまで真実で、どのくらい虚構が混じっているのかを、当時の映像などを見ながら検証してみたい。

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文・奥波一秀

 ヴァーグナー作品が、ナチおよびユダヤ人虐殺と深い関わりを持つことは、今更言うまでもない「事実」として自明視されている。戦後七〇年近く経とうという現在に至っても、ユダヤ人国家イスラエルにおいて、いまだヴァーグナー作品の公開上演は、ズービン・メータやダニエル・バレンボイムらの試みを除けば、ホロコーストを思い起こさせる音楽として事実上、御法度のままである。

 たしかに、とりわけ《マイスタージンガー》が、ドイツ・ナショナリズムを高揚させ、ナチ期のレイシズムの劇症化に一役買ったことは、否定できない事実である(詳しくは拙著『フルトヴェングラー』)。一二年にわたるナチ時代、《マイスタージンガー》は要所要所で鳴らされる。たとえば、プロイセン的伝統への忠誠を誓う(装う)「ポツダムの日」(1933)、動画も残っている戦中の労働者慰問コンサート(1942)戦時バイロイト音楽祭(1943,44)。特にニュルンベルクでの全国党大会(1933-38)は、神聖ローマ帝国(「第一帝国」)の伝統継承を装うべく、前夜祭での《マイスタージンガー》が恒例だった。

リーフェンシュタール《意志の勝利》

オペラハウスの改修工事を見学するヒトラー。改修後のオープニングを飾ったのは、1935年党大会の前夜祭も兼ねての《マイスタージンガー》(フルトヴェングラー指揮)だった(1935)。

 とはいえ「ヴァーグナー作品=ナチの御用音楽」のような単純な理解の仕方もまた、歴史の上っ面をなでて蓋をしてしまう安易さを免れない。ヴァーグナー作品はたしかにナチ期に「濫用」されたし、ヒトラーやゲッペルスの個人的お気に入りでもあるが、その点を重視しすぎることにも、一抹の懸念を覚えざるをえない。

 ナチとヴァーグナー作品の「深い関係」の実態について、ナチ御用達の女性映画監督レニ・リーフェンシュタールの映画《意志の勝利》(1935)を例にとって、示してみよう。この映画は、《マイスタージンガー》ゆかりの地ニュルンベルクでの1934年のナチ党大会の様子を伝える悪名高いプロパガンダ映画である。当時はヴェネツィア・ビエンナーレ(1935)、パリ万博(1937)で金メダルをとるなど好評を博したが、戦後は、ナチのプロパガンダ映画としてパージされ、ドイツではいまでも公開上演が原則できない。

 党大会の「威光」を雄弁すぎるほど伝えることに成功した《意志の勝利》には、飛行場から旧市街へ凱旋するヒトラーの様子など、さまざまなイヴェントが取材されるが、実は《マイスタージンガー》は、この年に限って上演がなく、収録されていない。映画の趣旨にもぴったりなはずのヴァーグナー音楽をBGMとして使わない手はないのに、《意志の勝利》に、ヴァーグナーは意外なほど登場しない。にも関わらず、この作品にヴァーグナー(《マイスタージンガー》)が「頻繁に」使われているとの俗説は驚くほどまかり通っている。私自身、DVDを繰り返し試聴し、ヒトラーを乗せたセスナがニュルンベルク上空にさしかかる場面や、あらたまってヒトラーが登場するシーンなど、ヴァーグナーからの引用があるとされるところを探したがみつけられず、もしや同映画の別ヴァージョンでもあるのかと思って、疑問を放置してきた。が、今回あらためて調べてみたら、同じ疑問を抱いている人が他にもいた。

総統の桟敷席(1935)
「「ヴァーグナーの音楽」が概して利用されていると指摘する文献はざらにあるし、なかには、特定の作品や動機を名指ししているものさえある。しかし、ヴァーグナー作品からの直接引用はこの個所と、映画の終わり部分のゴットフリート・ゾンターク作《ニーベルンゲン行進曲》だけである」(Stefan Strötgen '"Ich komponiere den Parteitag...". Zur Rolle der Musik in Leni Riefenstahls Triumph des Willens', in: "Von Schlachthymnen und Protestsongs"(2006), S.146)。

 「この個所」とは、第三シークエンス、党大会開幕の朝の、古都ニュルンベルクの光景で、合唱《目覚めよ》とそれに続く「夜明けは近い」以下のメロディーが用いられている(同メロディーは第三幕前奏曲にも予示されている)。ゾンタークの《ニーベルンゲン行進曲》は閉会式でのヒトラー演説に先立つハーケンクロイツ旗の行進を導く(1:20-)。

 BGMという限定をはずせば、ルードルフ・ヘスによる党大会開催の辞に先立つファンファーレ(7:23-)は、《ローエングリン》第三幕、軍勢集結の場面(1:55-)からの引用である。ヒトラー・ユーゲント集会冒頭のファンファーレのたった一音《リエンツィ》引用とするのは、さすがにどうかと思うが、映像開始前の序奏には《マイスタージンガー》前奏曲の一部が目立たない仕方で編み込まれているし、古都ニュルンベルク旧市街パレード冒頭、鍵十字の旗を下から見上げるシーン(2:50-)には、ヴァーグナー・チックな音型がある(ように聴こえる)。

 映画音楽を担当した作曲家ヘルベルト・ヴィント自身、ヴァーグナーの影響を受けているから、当然ではあるのだが、意図的に織り込んでいるのか、たまたまそう聴こえるのか、といったことは、ヴェントの作曲実態を調べないとわからない。ちなみにヴェント自身は、リーフェンシュタールの意向とは反対に、《ホルスト・ヴェッセル歌》《マイスタージンガー》いずれの引用も避けたがったらしい。楽聖ヴァーグナーを「ナチ」に巻き込まない、というような殊勝な動機ではなく、おそらく自作に自信があったということだろう。

1938年、《マイスタージンガー》のチラシ

 《意志の勝利》をヴァーグナー一色で染め上げることは、十分すぎるほど可能だっただろうし、もしかしたら今からでも、可能かもしれない。というのも、Youtubeにはいろいろと面白い動画がアップされていて、たとえばキムタク主演の実写版《宇宙戦艦ヤマト》の映像に、オリジナル・アニメの音楽を巧妙にコラージュしたものがある。宮川泰の達成した場面・心象風景と音楽との関連にどっぷりつかり込んだヤマト・マニアにとっては、実写版のあちこちに適当な音楽をあてはめることなど、雑作もないことだ。同じように、ヴァーグナーの作品に慣れ親しんだ人なら、ヴァーグナーの適材を《意志の勝利》の適所に安々と配置できるにちがいない。

 いずれにせよ、《意志の勝利》におけるヴァーグナー引用はわずかにすぎず、冒頭のヒトラー飛来の個所にヴァーグナーはないし、ヒトラー登場場面に《マイスタージンガー》が繰り返されるという事実もない。《マイスタージンガー》の直接的引用は一カ所しかないにもかかわらず、あちこちに《マイスタージンガー》を聴いてしまう文献が今も絶えないのは、ヴァーグナーとナチというイメージ的な結びつきがあまりにも自明のものになってしまっているからなのだろうか。(1937年のフィルム《Festliches Nürnberg》の冒頭には《マイスタージンガー》引用があるので、これと混同されているのかもしれない)。

 ちなみに、ヒトラー飛来シーンにあるとされる《マイスタージンガー》引用について、ドイツ語のwikipediaは俗説に従い、英語・イタリア語などはそれをそのまま翻訳しているようだ。対してフランス語は「?」と疑問符を付し、日本語は優秀なことに「引用」そのものを事実上、否定している(2012年10月現在)。

ドイツ人はみな"クラシック音楽通"?

 ところで、スピルバーグ監督作品《シンドラーのリスト》(1993)のクラカウ・ゲットー掃蕩シーンは、その生々しさで話題になったが、掃蕩作戦のただ中で親衛隊将校がピアノを弾き、同僚二人が、
「なんだあれは、バッハ、バッハか?」
「いいや、モーツァルトだよ」
と会話を交わすシーン(1:42-)が、私にはとくに印象深かった。このシーンには、当時の「ドイツ人」へのイメージ、その実態との落差、のようなものが、見事に要約されている。残虐な作業と高尚な音楽を平然と同居させられるドイツ人、バッハ《イギリス組曲》の一節をソラで弾けるドイツ人、それをバッハらしいという程度には聴き分けられるドイツ人、知ったかぶりしながら間違えるドイツ人。

 「詩と音楽の国」というイメージの盲点になりがちなのが、この最後のタイプのドイツ人であろう。ドイツ人がみなクラシック音楽に通じているというわけではない。現代のドイツの若者がマイケル・ジャクソンに熱狂しているように、当時のドイツ人のかなりの人たちが、ポップ歌謡、民族音楽、あるいはジャズみたいなものを、好んで聴いていたのも事実である。

1938年党大会に招待された日本軍人。なかには前夜祭《マイスタージンガー》を観た人がいたかもしれないが、戦後バイロイト音楽祭を訪ねた某文人同様、ただ深夜バスに座らされている気分だったかもしれない。

 ナチ党員とて例外ではない。それどころか、「国民社会主義ドイツ労働者党」という党名を額面通りにとるなら、そもそも貴族やブルジョア階級によって庇護・育成されてきたクラシック音楽ほど、ナチ党員に縁遠いものはない。

 「われわれも一度はニキシュを聴きたい」と反乱に加わった水兵がいたといわれる1918年の革命は、音楽にも造詣の深かった日本政治思想史家・丸山眞男によれば、「文化水準の「上昇」要求から出た革命」であるのに対して、1933年のナチ「革命」は「ルサンチマンから発するところの「引張りおろす」革命」であったという。1918年の革命精神がはたして、「「丸山眞男」をひっぱたきたい」(赤木智弘)といった昨今のガラガラポン待望や、「ベートーヴェンなんか聴きやがって!」と丸山をつるしあげた1969年の学生運動、ナチ運動の精神などに比して、それほど高尚だったか疑問は残るが、少なくとも、ナチ運動の担い手のすべてが「一度はフルトヴェングラーを聴きたい」と思っていたわけでないことは、はっきりしている。ナチにとって最も大事な行事、党大会の《マイスタージンガー》上演(1935年のフルトヴェングラー指揮の公演だった可能性がある)についてさえ、次のようなありさまだった。

「千人以上の「党のお偉方」が招待状や入場券をもっていたが、どうやら、ニュルンベルクのビールやフランケン・ワインのような名物を味わうことを優先した。他の連中が党の義務を守り、オペラの苦行に耐えてくれるだろう、とあてにしたらしい。党の指導層は音楽に関心をもっているというのは伝説だった」『第三帝国の神殿にて〈上〉ナチス軍需相の証言』(中公文庫―BIBLIO20世紀)

 客席がガラ空きだったためにヒトラーは激怒し、党幹部たちを即刻、街中から連れもどさせようとしたという。下っ端の党員でなく、「お偉方」でさえ、ヴァーグナーの大作に長時間つきあわされる「義務」よりは、ニュルンベルクの街中に繰り出して、おいしいソーセージとビール片手に演歌でもがなりたてる方を選んだわけだ。ドイツ人の誰もが「バッハとモーツァルト」を聴き分けられるわけではないし、ナチ党員が皆ヴァーグナー好きというわけではない。

1938年、オーストリア併合を経てヴィーンからニュルンベルクに「帰還」した帝権表章。神聖ローマ帝国皇帝の証で、日本でいえば「三種の神器」のようなもの。

 そもそもゲッベルスとヒトラーですら、ヴァーグナー・ファン、とくに《マイスタージンガー》愛好者として知られているものの、純粋器楽作品にはあまり理解がなかったようだ。

「たとえばゲッベルスのような、ヒトラー幕僚中のわずかなインテリたちでさえ、フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期コンサートのような催しに顔を出さなかった。そこで目にしたのは、全名士中、内相のフリック唯一人だった。ヒトラーも、音楽に夢中のように見えたが、一九三三年以後、ベルリン・フィルハーモニーに行ったのは、ごくたまの公式の機会だけだった」(同上)

 これはゲッベルスと対立していたシュペーアの、しかも戦後の回想だから、いくらか割り引く必要はあるが、いずれにしても、ドイツにおいてさえ、ヴァーグナーを、さらに《マイスタージンガー》をそれとして聴き分けられるひとが、そう多かったとは思えない。

 以上の点を踏まえれば、前述のリーフェンシュタール《意志の勝利》の表象する党大会の整然とした熱気は、ことの一面、演出された表層に過ぎないことが推測できよう。崇高な行事の名目で中世都市(日本でいえば京都)の観光ができるというわけで、全国各地から集った党員たちで街はごった返した。「ニュルンベルク」という都市の意味を日本に置き換えて理解するなら、江戸(徳川家)=「ベルリン」(ナチ)にとっての鎌倉(源氏)が「ポツダム」、京都(天皇)が「ニュルンベルク」ということになる。意味合いも地理的布置も似ていなくもない。

 党大会中のそのニュルンベルク旧市街では、まさにヴァーグナーの曾孫カタリーナ演出の《マイスタージンガー》(2007)がグロテスクに描いたような、乱痴気騒ぎが繰り広げられていたのであり、祭りの後にはそこらじゅうにゴミや糞尿や汚物が散らばっていたのであろう。清く美しい中世都市の街並みと健全な民の祭りは、せいぜい、総統の意向に従って改修されたオペラハウスのその舞台上にしか存在しなかった。いや、正確には、清浄なニュルンベルクの朝をむかえたいとの欲望は、ナチ政権成立以後すでに舞台や映画の枠を超え、ある種の人々をゴミともども収集・廃棄・焼却する方向へとドライブしていた、とみるべきなのかもしれない。

 ヴァーグナー音楽とナチの関係については、個々に慎重な検討が必要なケースがほかにもありえる。いずれにせよ、ヴァーグナーといえばナチ、との条件反射が戦中戦後を通じてどのように形成されてきたのかについては、先入観を取り払って検証しなおす必要がありそうだ。

写真出典
1935年の党大会関連:
Festschrift zur Wiederöffnung des Nürnberger Opernhauses, 1935(?)

1938年の党大会関連:
Der Parteitag Großdeutschland - Offizieller Bericht über den Verlauf des
Reichsparteitages mit sämtlichen Kongreßreden, 1938



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